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小説その他

傘立ての予言

祖母の傘立ては、まだ降っていない雨で濡れる

傘立ての予言
#小説#短編小説#書き下ろし#幻想#家族

概要

水位一センチにつき一時間後の雨を知らせる、藍色の傘立て。それを六十年間ひとりで守り、誰にも信じてもらえないまま生きた祖母。孫が家を継いだ町で、その六十年の沈黙が意味を持ちはじめる。5,000字の書き下ろしオリジナル短編小説です。

本文

祖母の家の玄関にある傘立ては、まだ降っていない雨で濡れる。

私がそれに気づいたのは八歳の夏だった。晴れた朝、祖母が「今日は傘を持っていきなさい」と言った。空には雲ひとつなかった。私が渋ると、祖母は玄関の陶器の傘立てを指さした。中に、水が溜まっていた。三センチほど。誰も傘を差していないのに。

「これはね、四時間後の雨だよ」と祖母は言った。

その日の午後二時、私は下校の途中で豪雨に遭った。傘を差していたのは、学年で私ひとりだった。

傘立ては、深さが四十センチほどの、藍色の陶器だ。祖母の祖母の代からあると聞いた。底に小さな窪みがあって、そこから水が湧く。湧く、というのが正しいのかはわからない。とにかく、雨が降る数時間前になると、そこに水が溜まりはじめる。

規則は単純だった。

水位一センチにつき、雨は一時間後。溜まった水の量が、降る雨の量に比例する。

祖母はこの傘立てを、六十年間ひとりで守ってきた。誰にも言わなかった。近所の人には「膝が痛むと雨がわかる」と説明していた。

「なんで内緒にするの」と私は聞いた。

「言ったら、みんな来る」と祖母は言った。「来たら、この子は壊れる」

傘立てのことを、祖母は「この子」と呼んだ。

中学に上がった年の梅雨、傘立てが満杯になった。

四十センチ。つまり四十時間後。祖母は朝からその前に座り込んで、動かなかった。

「四十時間後って、明後日の夜だよ」と私は言った。

「そう」

「そんなに降るの?」

祖母は答えず、電話帳を持ってきた。それから、町内会の名簿を一軒ずつ、鉛筆でなぞりはじめた。

その夜、祖母は町内会長の家に行った。私も連れていかれた。

「二日後の夜、大雨が来ます。川が越えます。避難の準備をしてください」

会長は困った顔をした。

「天気予報は晴れですよ」

「予報より、うちの傘立てのほうが当たります」

会長は笑わなかった。笑わずに、静かに言った。

「おばあさん、その話、もう三十年前にも聞きました」

帰り道、祖母は何も言わなかった。

私が聞いた。

「三十年前って、なに」

祖母は歩きながら答えた。

「三十年前も、この子が満杯になった。私は同じことを言って回った。誰も信じなかった。ただ一軒だけ、信じてくれた家があった。その家は高台の親戚のところに避難した」

「雨は降ったの?」

「降った。橋が落ちて、七人死んだ」

私は足を止めた。

「じゃあ、みんな祖母ちゃんを信じるようになったんじゃないの」

「逆だよ」

祖母は振り返った。街灯の下で、顔が青白かった。

「なんで知っていたのに、もっと強く言わなかったのか、って言われた。なんであんただけ助かる家を選んだのか、って。避難した家は、あとで町を出ていった。私は残った。残って、六十年、頭のおかしいばあさんをやってる」

その二日後の夜、雨が降った。

私と祖母は、居間の窓から外を見ていた。祖母は電話を膝に置いていた。かけていい相手が、もういなかった。

午後十時、防災無線が鳴った。避難指示。

午後十一時、川が越えた。

その夜、町内で亡くなった人はいなかった。全員が、無線のあとに逃げたからだ。

祖母は無線の音を聞いたとき、電話を床に置いて、深く息を吐いた。

「よかった」

それだけ言って、その日は早く寝た。

高校を出て、私は東京に行った。

傘立てのある家から、できるだけ遠くへ行きたかった。

東京では、雨が降っても誰も困らなかった。地下鉄があり、コンビニに傘があり、傘を忘れても濡れるのは駅から会社までの三分だけだった。私はそこで七年働いた。七年間、天気予報を見なかった。見る必要がなかった。

祖母からは、月に一度、はがきが来た。

内容はいつも同じだった。

『この子は元気です。今日は二センチでした。』

私は返事を書かなかった。書かないことで、自分はもう関係ないと言おうとしていた。

六年目の秋、はがきの文面が変わった。

『この子は元気です。私は少し疲れました。』

私はそれを机の引き出しに入れた。入れて、一週間、開けなかった。

七年目の春、はがきが来なくなった。

私が帰ったのは、それから半年後だった。

祖母は台所に座っていた。痩せていた。私を見て、まず言ったのは「傘は持ってきたか」だった。

「持ってない」

「今日、三時に降るよ」

私は玄関を見た。傘立てに、三センチの水があった。

祖母は立ち上がって、押し入れから古い傘を出してきた。子ども用だった。私が小学生のときに使っていたものだ。

「これしかない」

「小さすぎるよ」

「濡れるよりましだろう」

私はその傘を持って、三時の雨の中を歩いた。肩が全部濡れた。

濡れながら、私は自分が七年間、何から逃げていたのかを考えていた。

傘立てからではなかった。

誰にも信じてもらえない六十年を、一人で背負っている人から、逃げていたのだ。

祖母が死んだのは、私が二十四歳のときだった。

葬式の日は晴れていた。傘立ての水位は、ゼロだった。

遺言はなかった。ただ、家の権利書と一緒に、封筒が一通あった。中に、便箋が一枚。

『この子を、誰にも見せないこと。   この子を、誰にも売らないこと。   この子の言うことを、必ず聞くこと。   聞いたことを、必ず誰かに言うこと。   信じてもらえなくても、言うこと。   言うことしか、私たちにはできないから』

私はその便箋を、財布に入れた。今も入っている。

葬式には、四十人ほど来た。

思っていたより多かった。祖母は「頭のおかしいばあさん」として六十年生きたはずだった。

焼香のあと、七十代くらいの女性が私のところに来た。

「あなた、お孫さん?」

「はい」

「三十年前にね、うちだけ避難したの」

私は息を呑んだ。

高台の親戚のところに逃げて、そのあと町を出ていったという、あの一軒だ。

「町を出られたと聞いていました」

「出たわよ。いられなくなったから」と彼女は言った。「なんであんたのところだけ逃げたんだ、って言われてね。逃げたことが悪いみたいに言われるの、おかしいでしょう」

「おかしいです」

「でも、そう言いたくなる気持ちも、わかるのよ。人が七人死んだから」

彼女は祭壇の写真を見た。

「おばあさんに、一度もお礼を言えなかった。言ったら、余計にあの人が責められると思って」

私はそこで、初めて祖母の六十年の重さを理解した。

信じてもらえないことより、信じてくれた人が去っていくことのほうが、たぶん重い。

彼女は財布から古い写真を出した。三十年前の家族写真だった。

「この子が、あのとき五歳でね。今、四十です。孫が二人います」

私は写真を見た。

「その子たちは」

「おばあさんのおかげで、生まれました」

彼女はそれだけ言って、帰っていった。

私は焼香の煙の中で、祖母の写真を見た。

写真の中の祖母は、いつもの、少し困ったような顔をしていた。

私は家を継いだ。仕事は東京だったので、辞めた。辞めるとき、上司に理由を聞かれて、「祖母の傘立てを守るためです」と正直に言った。上司はうつ病を疑って、産業医の面談を勧めてきた。

それでも私は帰った。

帰って、五年が過ぎた。

そのあいだ、私は町内会に入り、消防団に入り、PTAの手伝いをし、駅前の掃除に出た。誰にも傘立ての話はしなかった。ただ、水が溜まるたびに、私は町を歩いた。

「今日の午後、降るらしいですよ」

「明日の夜、けっこう強いって」

「明後日、洗濯物は室内のほうがいいかも」

毎回、当たった。

三年目くらいから、町の人が私を「よく当たる人」と呼ぶようになった。誰も理由を聞かなかった。私は答えなかった。

一度だけ、外した。

四年目の八月、傘立てに六センチの水が溜まった。私は町を歩いて、夕方の雨を告げた。

降らなかった。

次の日も降らなかった。三日目も降らなかった。

私は傘立てを覗いた。水は溜まったままだった。減りもしない。

四日目、私は祖母のノートを全部読み返した。六十年ぶんの記録の中に、たった一行、こういう記述があった。

『減らないときは、場所が違う。』

私はラジオをつけた。同じ日、隣の県で豪雨が降っていた。土砂崩れで、二人亡くなっていた。

この子が見ているのは、この町の空だけではない。

そのことに、私も祖母も、六十年以上気づかなかった。

私は町内会館に行って、事情を説明した。会長は聞き終わって、こう言った。

「隣の県に、電話するか?」

「信じないだろう」

「そりゃそうだ」

私たちはそこで黙った。

黙っているあいだに、私は自分の限界を理解した。私にできるのは、この町の人に言うことだけだ。それ以上のことをしようとすれば、祖母の三十年が繰り返される。

会長が言った。

「町内の防災無線、隣町にも聞こえるようにするか」

「できるのか」

「できるかどうかじゃなくて、やるかどうかだろ」

その申請書は、今も県庁で止まっている。

三年、止まっている。

それでも私たちは、毎年更新して出し直している。

六年目の秋、傘立てが満杯を超えた。

水が縁からあふれて、玄関の三和土に広がっていた。四十センチを超えるというのは、目盛りの外側だ。祖母のノートを全部見返したが、記録がなかった。六十年で一度もなかったということだ。

私は町内会館に走った。

会長は代替わりしていた。同い年の男だった。小学校の同級生だ。

「明日の夜、たぶん今までにない雨が来る」と私は言った。

彼はしばらく私を見て、それから聞いた。

「予報は?」

「見てない」

「見ろよ」

私はスマートフォンを出した。曇りのち晴れ。降水確率二十パーセント。

彼はそれを見て、うなずいた。

「わかった。避難所を開ける」

私は驚いた。

「信じるのか」

「お前、六年間、一回も外してない」と彼は言った。「理由は知らねえけど、外してない人間の言うことを聞かないのは、ただの馬鹿だろ」

その夜、町内放送が流れた。避難所開設。任意避難の呼びかけ。

会長は、放送の最後にこう付け加えた。

「予報は晴れです。降らなかったら、私が全員に謝ります。それでも、来てください」

その夜、四百人が避難所に来た。人口の三分の一だ。来なかった人も、多くは二階に上がった。

雨は、翌日の夕方から降った。

線状降水帯という言葉を、私はその日のニュースで初めて聞いた。八時間で四百ミリ。町の三分の一が水に浸かった。

死者は、ゼロだった。

水が引いたあと、テレビ局が来た。「奇跡の町」という言い方をした。会長は取材に答えて、「たまたま避難所を開けていた」とだけ言った。私のことは一言も出さなかった。

夜、彼が焼酎を持って家に来た。

「言わなくてよかったのか」と私は聞いた。

「言ったら、お前んち、来客だらけになるだろ」

「うん」

「ばあちゃん、それで六十年苦労したんだろ」

私は彼を見た。

「知ってたのか」

「町のじいさんばあさんは、みんな薄々知ってる」と彼は言った。「三十年前のあとで、みんな悪かったと思ってる。でも謝れなかった。謝ったら、信じなかったことを認めることになるから。だから代わりに、孫のお前の言うことは聞こうって、なんとなく決まってた」

私は焼酎を飲んだ。むせた。

「それ、祖母ちゃんに言ってやってほしかった」

「言えなかったんだよ」と彼は言った。「言えなかったのが、この町の罪だと思ってる」

今、傘立ては空だ。

私は毎朝それを覗く。空なら、平和な一日だ。一センチなら、一時間後に降る。

便箋の四行目——「信じてもらえなくても、言うこと」——を、私は毎朝読む。

祖母は六十年、信じてもらえないまま言い続けた。その六十年が、私の一言を信じてもらえる町を作った。祖母は、それを見ないまま死んだ。

私が今できるのは、次の六十年を、同じように黙って積むことだけだ。

誰かが、それを受け取るかもしれない。受け取らないかもしれない。

どちらにしても、水は溜まる。

去年、子どもが生まれた。

妻は、傘立てのことを知っている。付き合っている段階で話した。彼女は最初、冗談だと思った。二度目に、頭の病気を疑った。三度目に、実際に見て、黙った。

黙ってから、こう言った。

「これ、しんどいね」

私は驚いた。誰も、そう言わなかったからだ。すごいとも、うそだとも、こわいとも言われたが、しんどいと言われたのは初めてだった。

「うん」と私は言った。「しんどい」

彼女はうなずいて、それきりその話をしなかった。

ただ、雨の日、私が町を歩いて回って帰ってくると、必ず玄関で待っている。

濡れたコートを受け取って、乾いたタオルを渡して、こう言う。

「何人に言えた?」

私は数える。

「十二人」

「じゅうぶん」

この「じゅうぶん」を、祖母は六十年、一度も言われなかった。

娘が歩けるようになったら、玄関の傘立てに手を突っ込むだろう。

冷たい、と言って泣くかもしれない。

そのとき私は、何と説明するだろうか。

まだ決めていない。

ただ、祖母が私に言った最初の一言だけは、覚えている。

「これはね、四時間後の雨だよ」

説明ではなかった。ただの事実だった。

子どもには、たぶん、事実だけで足りる。

意味は、あとから、その子が自分でつける。

私がそうしたように。

(了)

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