傘立ての予言
祖母の傘立ては、まだ降っていない雨で濡れる

概要
水位一センチにつき一時間後の雨を知らせる、藍色の傘立て。それを六十年間ひとりで守り、誰にも信じてもらえないまま生きた祖母。孫が家を継いだ町で、その六十年の沈黙が意味を持ちはじめる。5,000字の書き下ろしオリジナル短編小説です。
本文
祖母の家の玄関にある傘立ては、まだ降っていない雨で濡れる。
私がそれに気づいたのは八歳の夏だった。晴れた朝、祖母が「今日は傘を持っていきなさい」と言った。空には雲ひとつなかった。私が渋ると、祖母は玄関の陶器の傘立てを指さした。中に、水が溜まっていた。三センチほど。誰も傘を差していないのに。
「これはね、四時間後の雨だよ」と祖母は言った。
その日の午後二時、私は下校の途中で豪雨に遭った。傘を差していたのは、学年で私ひとりだった。
◆
傘立ては、深さが四十センチほどの、藍色の陶器だ。祖母の祖母の代からあると聞いた。底に小さな窪みがあって、そこから水が湧く。湧く、というのが正しいのかはわからない。とにかく、雨が降る数時間前になると、そこに水が溜まりはじめる。
規則は単純だった。
水位一センチにつき、雨は一時間後。溜まった水の量が、降る雨の量に比例する。
祖母はこの傘立てを、六十年間ひとりで守ってきた。誰にも言わなかった。近所の人には「膝が痛むと雨がわかる」と説明していた。
「なんで内緒にするの」と私は聞いた。
「言ったら、みんな来る」と祖母は言った。「来たら、この子は壊れる」
傘立てのことを、祖母は「この子」と呼んだ。
◆
中学に上がった年の梅雨、傘立てが満杯になった。
四十センチ。つまり四十時間後。祖母は朝からその前に座り込んで、動かなかった。
「四十時間後って、明後日の夜だよ」と私は言った。
「そう」
「そんなに降るの?」
祖母は答えず、電話帳を持ってきた。それから、町内会の名簿を一軒ずつ、鉛筆でなぞりはじめた。
その夜、祖母は町内会長の家に行った。私も連れていかれた。
「二日後の夜、大雨が来ます。川が越えます。避難の準備をしてください」
会長は困った顔をした。
「天気予報は晴れですよ」
「予報より、うちの傘立てのほうが当たります」
会長は笑わなかった。笑わずに、静かに言った。
「おばあさん、その話、もう三十年前にも聞きました」
◆
帰り道、祖母は何も言わなかった。
私が聞いた。
「三十年前って、なに」
祖母は歩きながら答えた。
「三十年前も、この子が満杯になった。私は同じことを言って回った。誰も信じなかった。ただ一軒だけ、信じてくれた家があった。その家は高台の親戚のところに避難した」
「雨は降ったの?」
「降った。橋が落ちて、七人死んだ」
私は足を止めた。
「じゃあ、みんな祖母ちゃんを信じるようになったんじゃないの」
「逆だよ」
祖母は振り返った。街灯の下で、顔が青白かった。
「なんで知っていたのに、もっと強く言わなかったのか、って言われた。なんであんただけ助かる家を選んだのか、って。避難した家は、あとで町を出ていった。私は残った。残って、六十年、頭のおかしいばあさんをやってる」
◆
その二日後の夜、雨が降った。
私と祖母は、居間の窓から外を見ていた。祖母は電話を膝に置いていた。かけていい相手が、もういなかった。
午後十時、防災無線が鳴った。避難指示。
午後十一時、川が越えた。
その夜、町内で亡くなった人はいなかった。全員が、無線のあとに逃げたからだ。
祖母は無線の音を聞いたとき、電話を床に置いて、深く息を吐いた。
「よかった」
それだけ言って、その日は早く寝た。
◆
高校を出て、私は東京に行った。
傘立てのある家から、できるだけ遠くへ行きたかった。
東京では、雨が降っても誰も困らなかった。地下鉄があり、コンビニに傘があり、傘を忘れても濡れるのは駅から会社までの三分だけだった。私はそこで七年働いた。七年間、天気予報を見なかった。見る必要がなかった。
祖母からは、月に一度、はがきが来た。
内容はいつも同じだった。
『この子は元気です。今日は二センチでした。』
私は返事を書かなかった。書かないことで、自分はもう関係ないと言おうとしていた。
六年目の秋、はがきの文面が変わった。
『この子は元気です。私は少し疲れました。』
私はそれを机の引き出しに入れた。入れて、一週間、開けなかった。
七年目の春、はがきが来なくなった。
◆
私が帰ったのは、それから半年後だった。
祖母は台所に座っていた。痩せていた。私を見て、まず言ったのは「傘は持ってきたか」だった。
「持ってない」
「今日、三時に降るよ」
私は玄関を見た。傘立てに、三センチの水があった。
祖母は立ち上がって、押し入れから古い傘を出してきた。子ども用だった。私が小学生のときに使っていたものだ。
「これしかない」
「小さすぎるよ」
「濡れるよりましだろう」
私はその傘を持って、三時の雨の中を歩いた。肩が全部濡れた。
濡れながら、私は自分が七年間、何から逃げていたのかを考えていた。
傘立てからではなかった。
誰にも信じてもらえない六十年を、一人で背負っている人から、逃げていたのだ。
◆
祖母が死んだのは、私が二十四歳のときだった。
葬式の日は晴れていた。傘立ての水位は、ゼロだった。
遺言はなかった。ただ、家の権利書と一緒に、封筒が一通あった。中に、便箋が一枚。
『この子を、誰にも見せないこと。 この子を、誰にも売らないこと。 この子の言うことを、必ず聞くこと。 聞いたことを、必ず誰かに言うこと。 信じてもらえなくても、言うこと。 言うことしか、私たちにはできないから』
私はその便箋を、財布に入れた。今も入っている。
◆
葬式には、四十人ほど来た。
思っていたより多かった。祖母は「頭のおかしいばあさん」として六十年生きたはずだった。
焼香のあと、七十代くらいの女性が私のところに来た。
「あなた、お孫さん?」
「はい」
「三十年前にね、うちだけ避難したの」
私は息を呑んだ。
高台の親戚のところに逃げて、そのあと町を出ていったという、あの一軒だ。
「町を出られたと聞いていました」
「出たわよ。いられなくなったから」と彼女は言った。「なんであんたのところだけ逃げたんだ、って言われてね。逃げたことが悪いみたいに言われるの、おかしいでしょう」
「おかしいです」
「でも、そう言いたくなる気持ちも、わかるのよ。人が七人死んだから」
彼女は祭壇の写真を見た。
「おばあさんに、一度もお礼を言えなかった。言ったら、余計にあの人が責められると思って」
私はそこで、初めて祖母の六十年の重さを理解した。
信じてもらえないことより、信じてくれた人が去っていくことのほうが、たぶん重い。
彼女は財布から古い写真を出した。三十年前の家族写真だった。
「この子が、あのとき五歳でね。今、四十です。孫が二人います」
私は写真を見た。
「その子たちは」
「おばあさんのおかげで、生まれました」
彼女はそれだけ言って、帰っていった。
私は焼香の煙の中で、祖母の写真を見た。
写真の中の祖母は、いつもの、少し困ったような顔をしていた。
◆
私は家を継いだ。仕事は東京だったので、辞めた。辞めるとき、上司に理由を聞かれて、「祖母の傘立てを守るためです」と正直に言った。上司はうつ病を疑って、産業医の面談を勧めてきた。
それでも私は帰った。
帰って、五年が過ぎた。
そのあいだ、私は町内会に入り、消防団に入り、PTAの手伝いをし、駅前の掃除に出た。誰にも傘立ての話はしなかった。ただ、水が溜まるたびに、私は町を歩いた。
「今日の午後、降るらしいですよ」
「明日の夜、けっこう強いって」
「明後日、洗濯物は室内のほうがいいかも」
毎回、当たった。
三年目くらいから、町の人が私を「よく当たる人」と呼ぶようになった。誰も理由を聞かなかった。私は答えなかった。
◆
一度だけ、外した。
四年目の八月、傘立てに六センチの水が溜まった。私は町を歩いて、夕方の雨を告げた。
降らなかった。
次の日も降らなかった。三日目も降らなかった。
私は傘立てを覗いた。水は溜まったままだった。減りもしない。
四日目、私は祖母のノートを全部読み返した。六十年ぶんの記録の中に、たった一行、こういう記述があった。
『減らないときは、場所が違う。』
私はラジオをつけた。同じ日、隣の県で豪雨が降っていた。土砂崩れで、二人亡くなっていた。
この子が見ているのは、この町の空だけではない。
そのことに、私も祖母も、六十年以上気づかなかった。
私は町内会館に行って、事情を説明した。会長は聞き終わって、こう言った。
「隣の県に、電話するか?」
「信じないだろう」
「そりゃそうだ」
私たちはそこで黙った。
黙っているあいだに、私は自分の限界を理解した。私にできるのは、この町の人に言うことだけだ。それ以上のことをしようとすれば、祖母の三十年が繰り返される。
会長が言った。
「町内の防災無線、隣町にも聞こえるようにするか」
「できるのか」
「できるかどうかじゃなくて、やるかどうかだろ」
その申請書は、今も県庁で止まっている。
三年、止まっている。
それでも私たちは、毎年更新して出し直している。
◆
六年目の秋、傘立てが満杯を超えた。
水が縁からあふれて、玄関の三和土に広がっていた。四十センチを超えるというのは、目盛りの外側だ。祖母のノートを全部見返したが、記録がなかった。六十年で一度もなかったということだ。
私は町内会館に走った。
会長は代替わりしていた。同い年の男だった。小学校の同級生だ。
「明日の夜、たぶん今までにない雨が来る」と私は言った。
彼はしばらく私を見て、それから聞いた。
「予報は?」
「見てない」
「見ろよ」
私はスマートフォンを出した。曇りのち晴れ。降水確率二十パーセント。
彼はそれを見て、うなずいた。
「わかった。避難所を開ける」
私は驚いた。
「信じるのか」
「お前、六年間、一回も外してない」と彼は言った。「理由は知らねえけど、外してない人間の言うことを聞かないのは、ただの馬鹿だろ」
◆
その夜、町内放送が流れた。避難所開設。任意避難の呼びかけ。
会長は、放送の最後にこう付け加えた。
「予報は晴れです。降らなかったら、私が全員に謝ります。それでも、来てください」
その夜、四百人が避難所に来た。人口の三分の一だ。来なかった人も、多くは二階に上がった。
◆
雨は、翌日の夕方から降った。
線状降水帯という言葉を、私はその日のニュースで初めて聞いた。八時間で四百ミリ。町の三分の一が水に浸かった。
死者は、ゼロだった。
◆
水が引いたあと、テレビ局が来た。「奇跡の町」という言い方をした。会長は取材に答えて、「たまたま避難所を開けていた」とだけ言った。私のことは一言も出さなかった。
夜、彼が焼酎を持って家に来た。
「言わなくてよかったのか」と私は聞いた。
「言ったら、お前んち、来客だらけになるだろ」
「うん」
「ばあちゃん、それで六十年苦労したんだろ」
私は彼を見た。
「知ってたのか」
「町のじいさんばあさんは、みんな薄々知ってる」と彼は言った。「三十年前のあとで、みんな悪かったと思ってる。でも謝れなかった。謝ったら、信じなかったことを認めることになるから。だから代わりに、孫のお前の言うことは聞こうって、なんとなく決まってた」
私は焼酎を飲んだ。むせた。
「それ、祖母ちゃんに言ってやってほしかった」
「言えなかったんだよ」と彼は言った。「言えなかったのが、この町の罪だと思ってる」
◆
今、傘立ては空だ。
私は毎朝それを覗く。空なら、平和な一日だ。一センチなら、一時間後に降る。
便箋の四行目——「信じてもらえなくても、言うこと」——を、私は毎朝読む。
祖母は六十年、信じてもらえないまま言い続けた。その六十年が、私の一言を信じてもらえる町を作った。祖母は、それを見ないまま死んだ。
私が今できるのは、次の六十年を、同じように黙って積むことだけだ。
誰かが、それを受け取るかもしれない。受け取らないかもしれない。
どちらにしても、水は溜まる。
◆
去年、子どもが生まれた。
妻は、傘立てのことを知っている。付き合っている段階で話した。彼女は最初、冗談だと思った。二度目に、頭の病気を疑った。三度目に、実際に見て、黙った。
黙ってから、こう言った。
「これ、しんどいね」
私は驚いた。誰も、そう言わなかったからだ。すごいとも、うそだとも、こわいとも言われたが、しんどいと言われたのは初めてだった。
「うん」と私は言った。「しんどい」
彼女はうなずいて、それきりその話をしなかった。
ただ、雨の日、私が町を歩いて回って帰ってくると、必ず玄関で待っている。
濡れたコートを受け取って、乾いたタオルを渡して、こう言う。
「何人に言えた?」
私は数える。
「十二人」
「じゅうぶん」
この「じゅうぶん」を、祖母は六十年、一度も言われなかった。
◆
娘が歩けるようになったら、玄関の傘立てに手を突っ込むだろう。
冷たい、と言って泣くかもしれない。
そのとき私は、何と説明するだろうか。
まだ決めていない。
ただ、祖母が私に言った最初の一言だけは、覚えている。
「これはね、四時間後の雨だよ」
説明ではなかった。ただの事実だった。
子どもには、たぶん、事実だけで足りる。
意味は、あとから、その子が自分でつける。
私がそうしたように。
(了)
出品者: Regnboga.net 公式