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小説その他

三十二秒の海

溺死の直前三十二秒を繰り返す男が、左を向いて見つけたもの

三十二秒の海
#小説#短編小説#書き下ろし#幻想#再生

概要

海に落ちた男は、死の直前の三十二秒だけを何千回も繰り返していた。もがくのをやめたある回、彼は初めて左を向く。そこには二十二年間、同じ三十二秒に閉じ込められた少女がいた。一音ずつ交わす会話が、止まっていた時間を動かしはじめる。5,000字の書き下ろしオリジナル短編小説です。

本文

私は今、三十二秒ごとに死んでいる。

正確に言うと、死ぬ直前の三十二秒だけを、繰り返し生きている。始まりはいつも同じだ。冷たい水が鼻から入ってきて、喉の奥で塩の味がして、視界の上のほうに光の膜がある。あれが水面だ。あそこまで、たぶん三メートルもない。三メートルもないのに、私は三十二秒のあいだ一度もたどり着いたことがない。

最初の何百回かは、必死にもがいた。手足を動かし、水を蹴り、光に向かって伸びた。伸ばした指先が水面を割る瞬間——そこで三十二秒が終わり、また鼻から水が入るところに戻る。

千回を超えたあたりで、私はもがくのをやめた。

やめたら、見えるものが増えた。

まず、私のすぐ左に、もうひとりいる。

これに気づくのに三千回かかった。人間は溺れているとき、自分のことしか見ない。左を向くという発想がない。三千回目のある回、私は疲れて力を抜き、たまたま首が横を向いた。

女の子だった。中学生くらい。制服を着たまま沈んでいて、髪が海藻のように上に流れている。目が開いていた。私を見ていた。

私は口を開けたが、水しか出ていかなかった。三十二秒が終わった。

次の回、私は最初から左を向いた。彼女はそこにいた。今度は、彼女のほうが先に口を動かした。何かを言っている。声は聞こえない。

私は唇の形を読もうとした。三十二秒では足りなかった。

次の回。次の回。次の回。

一回につき、読み取れるのは一音か二音だ。私は自分の中に紙を作り、そこに一音ずつ書き溜めていった。溜めたものは、次の回に持ち越せる。それがこの繰り返しの唯一のルールらしかった。私は記憶だけを持って、同じ三十二秒に戻される。

二百回かけて、彼女の言葉が完成した。

——「あなた、なんでまだ、上を見てるの」

答えるのに、また百五十回かかった。私は唇を大きく動かす練習をした。水中で口を動かすのは思ったより難しい。頬に水圧がかかっていて、表情筋がうまく働かない。

——「たすかりたいから」

彼女は少しのあいだ私を見ていた。それから、笑ったように見えた。水の中で笑うと、口の端から小さな泡が出る。泡は上に登っていって、光の膜に触れて消える。

彼女の返事は、こうだった。

——「わたし、二十二年ここにいる」

私は自分がいつからここにいるのか、数えたことがなかった。数える意味がないと思っていた。三十二秒は三十二秒で、その外に時間はないからだ。

でも彼女は数えていた。

どうやって、と聞いた。四十回かかった。

——「あなたが来る前に、べつの人がいた。その人が、いなくなった日を覚えてる」

私は水の中で、初めて背筋が冷たくなった。溺れている人間が寒さを感じるというのは、たぶん比喩ではない。

——「いなくなるって、どこに」

彼女は答えなかった。三十二秒が終わった。次の回も、その次の回も、答えなかった。彼女は私を見て、ただ髪を揺らしていた。

九十回目に、彼女は言った。

——「上にいった」

上。私がずっと目指していた場所だ。あそこに行けば、繰り返しは終わる。終わって、たぶん、私は死ぬ。あるいは助かる。どちらなのかはわからないが、どちらでもいい。この三十二秒よりはましだ。

私はそう思っていた。

彼女は違った。

——「いかないほうがいい」

——「なんで」

——「ここにいれば、まだ、しんでない」

私はそこで初めて、彼女の年齢のことを考えた。中学生。制服。二十二年。

彼女は二十二年、上に行かなかった。三メートルもない距離を、二十二年のぼらなかった。それは、のぼれなかったのではない。

繰り返しの中で、私はいくつかのことを発見した。書き留めておく価値があると思うので、記しておく。

ひとつ。この三十二秒には、痛みがない。溺れているのに、苦しくない。最初のうちは苦しかったが、五百回を過ぎたあたりで消えた。苦しみは、終わりがあると思っているから苦しいのだと思う。終わりがないとわかると、身体は苦しむのをやめる。

ふたつ。深さは変わらない。私はもがくのをやめてから、下に沈まなくなった。上にも行かないが、下にも行かない。ちょうど三メートル。海というのは、たぶん、こちらが決めるまで何もしない。

みっつ。魚が来る。

これは千五百回目くらいに気づいた。小さな銀色の魚が、二匹か三匹、私の周りを回っている。同じ個体かどうかはわからない。ただ、毎回いる。彼らも同じ三十二秒に閉じ込められているのだろうか。それとも、彼らにとっての三十二秒は、生涯まるごとの長さなのだろうか。

よっつ。彼女の制服のリボンは、赤だ。

二十二年、海の中にあったのに、色が褪せていない。これがいちばん、私を落ち着かなくさせた。時間が経っていない証拠だからだ。彼女は二十二年、一秒も進んでいない。

いつつ。私は、彼女の顔をだんだん美しいと思うようになった。

これは発見というより、告白だ。三千回、四千回と同じ顔を見ていると、その顔は世界のすべてになる。他に見るものがないからだ。私は四十一歳で、彼女は十四か十五で、そして二人とも溺れていて、それでも私は彼女の顔を見るのが好きになった。

この気持ちに名前をつけるのは、たぶんやめたほうがいい。

名前をつけると、たいていのものは壊れる。

海の話をしよう。

私が落ちたのは、六月の終わりの海だ。防波堤から釣り糸を垂らしていて、足を滑らせた。それだけの話だ。誰も突き落としていないし、誰も呼んでいない。四十一歳の男が、平日の午後に、ひとりで、海に落ちた。

落ちる瞬間、私が思ったのは「あ、これで終わる」だった。

悲鳴ではなく、安堵だった。それがこの繰り返しの原因なのだと、いつからか私は思っている。私は本気で上を目指していない。だから三メートルが縮まらない。

彼女に、その話をした。三百回かけて。

彼女は聞き終わると、こう言った。

——「わたしも、おなじ」

私たちは、それから長いこと、何も言わなかった。何百回か、何千回か。ただ左右に並んで沈んでいた。悪くなかった。人生で誰かと並んでいて、何も話さなくていいと思えたのは、これが初めてだったかもしれない。

あるとき、彼女が言った。

——「なまえ、おしえて」

私は名前を言った。四十回かかった。彼女は私の名前を、口の中で三回繰り返した。泡が三回出た。

それから彼女は自分の名前を言った。二十七回かかった。三文字の名前だった。

私は彼女の名前を、自分の中の紙に書いた。三十二秒を超えて残る、たったひとつの持ち物として。

変化が起きたのは、その直後だ。

次の回、三十二秒が三十三秒になった。

最初は数え間違いだと思った。でも違った。三十四秒。三十六秒。四十秒。回を重ねるごとに、私たちの時間は伸びていった。

伸びた時間で、私たちは話をした。会話ができるようになった。彼女は二十二年ぶんの話をした。落ちた日のこと。落ちる前の学校のこと。制服のスカートの丈を毎朝直していたこと。母親が、彼女が海に行くことを知らなかったこと。

「知られたくなかったの」と彼女は言った。「心配してくれるのがいやだった。心配されると、自分がかわいそうな子だってわかっちゃうから」

「ねえ」と彼女は言った。「制服のスカート、なんで直してたと思う?」

「かわいくしたかったから?」

「ちがう。ほかの子がみんな直してたから」

彼女は自分のスカートを見た。二十二年、水の中で揺れているスカートを。

「わたし、自分でやりたいこと、ひとつもなかったの。ぜんぶ、ほかの子に合わせてた。合わせてないと、変な子だと思われるから」

「うん」

「海に行ったのも、合わせたの」

私は聞き返した。

「合わせた?」

「クラスの子が、夜の海はきれいだよって言ってた。だから行った。行けば、あの子たちと同じ話ができると思って」

彼女は笑った。水中の笑いは、泡になって上がっていく。

「ひとりで行ったんだけどね」

私は何も言えなかった。

言えないまま、彼女は続けた。

「ずっと、だれかと同じになろうとして、だれとも同じになれなかった。しんだあとも、ひとりだった。二十二年」

「今は」

「今は、ふたり」

私は自分の話をした。四十一年ぶんの話は、彼女の二十二年より短く済んだ。仕事のこと。離婚のこと。誰にも連絡しなくなって三年経つこと。防波堤のこと。

妻が出ていったときのことも話した。彼女は玄関で、こう言った。「あなたと暮らしてると、自分が透明になる気がする」。私は反論しなかった。反論の材料がなかった。私は妻を透明にした自覚があった。ただ、どうすれば透明にせずに済むのかが、四十年生きてわからなかった。

「わたしと同じだ」と少女は言った。

「同じ?」

「あなたも、だれかに合わせてたんでしょ。合わせすぎて、自分がなくなったんでしょ」

私は水の中で、笑いのようなものを吐いた。

「十四歳に見抜かれるとは思わなかった」

「十四じゃない」と彼女は言った。「二十二年たってるから、三十六」

「そうか」

「あなたより、ちょっと年下」

「敬語やめていいよ」

「もともとタメ口だし」

「さびしかったんじゃなくて」と私は言った。「さびしいことに、飽きたんだと思う」

彼女は笑った。今度は、はっきり笑った。

時間が二分を超えたころ、彼女が上を見た。

二十二年間、一度も見なかったほうを。

「ねえ」と彼女は言った。「わたし、いま、こわくない」

「うん」

「こわくないの、はじめて」

私は光の膜を見上げた。三メートル。相変わらず三メートルだ。近づいてもいないし、遠ざかってもいない。

「のぼる?」と私は聞いた。

彼女は少し考えた。

「ふたりだと、のぼれるのかな」

「わからない。でも、ひとりだと二十二年のぼれなかった」

「あなたは、なん年?」

私は初めて数えてみた。数える気になった。

「たぶん、まだ三年くらい」

「ひよっこ」

「そうだね」

彼女は手を伸ばした。水の中で、手を伸ばすのは思ったより時間がかかる。ゆっくり、ゆっくり、彼女の指が私の手首に触れた。二十二年ぶんの冷たさがあった。

「にぎってて」と彼女は言った。「とちゅうで、こわくなるかもしれないから」

のぼりはじめてから、光の膜までの三メートルは、思ったより長かった。

途中で、彼女の手が何度も強く握られた。そのたびに私は握り返した。何も言わなかった。言葉はもう、必要な量を使い切っていた。

水面が近づくと、光が強くなる。強すぎて、彼女の顔が見えなくなった。私は握った手の感触だけで、まだ彼女がそこにいることを確かめた。

最後の一メートルで、彼女が言った。

「ありがとう」

それから、手が軽くなった。

私は水面を割った。

空気が肺に入ってきて、その痛みで、私は自分が生きていると理解した。六月の空は白く曇っていて、防波堤ははるか遠くに見えた。誰かが叫んでいる。誰かが浮き輪を投げている。

私は水面に浮かびながら、下を見た。

深い緑色があるだけだった。

病院で三日を過ごし、退院した日、私は市役所に行った。二十二年前に海で行方不明になった中学生の記録を探した。職員は不審そうな顔をしたが、古い新聞の縮刷版を見せてくれた。

三文字の名前が、そこにあった。

私は写真の中の彼女を見た。制服を着て、少し笑っている。水の中で見たときと同じ笑い方だった。

記事の最後に、こう書かれていた。遺体は発見されていない。

私は今、海のそばに住んでいる。防波堤には二度と立たないが、砂浜には毎朝行く。

誰かが沈んでいるかもしれない海を、私は毎朝見ている。三十二秒の中に閉じ込められた誰かが、今日も左を向かないまま、上ばかり見ているかもしれない。

左を向いてほしい、と思う。

そこに誰かがいるかもしれない。

いてくれるかもしれない。

去年の夏、砂浜で女の子に話しかけられた。

高校生だった。制服ではなく、私服だった。ひとりで海を見ていた。私はその立ち方に見覚えがあった。海に用事のある人間の立ち方だ。

私は隣に座った。何も言わなかった。三十分くらい、二人で黙って海を見た。

やがて彼女が言った。

「おじさん、なんでいるんですか」

「散歩」

「毎日?」

「毎日」

「ひまなんですね」

「ひまだよ」

彼女はしばらく黙って、それから言った。

「わたし、泳げないんです」

私は海を見たまま答えた。

「俺も泳げない」

「え」

「二年前にここで溺れた。助けられた」

彼女が私を見たのがわかった。

「どうでした」

「三十二秒だった」と私は言った。「三十二秒が、たぶん四年くらいあった」

彼女は何も言わなかった。

私は続けた。

「その中で、人に会った。左を向いたら、いた。それまで三千回、上ばかり見てて、気づかなかった」

「……その人は?」

「先に上がった。俺の手を引いて」

彼女は膝を抱えた。

「じゃあ、いま、その人は」

「いない」と私は言った。「二十二年前に死んでる。俺が会ったのは、たぶん、まだ死にきってなかったぶんだと思う」

私たちはまた黙った。波が三回来た。

彼女が立ち上がった。

「帰ります」

「ああ」

「明日も、いますか」

私はうなずいた。

「いる」

彼女は翌日も来た。その翌日も来た。

二か月来て、来なくなった。

悪いことが起きたのではないと思っている。思っているだけで、確かめる方法はない。

私は今も、毎朝あの砂浜に座っている。

左に、誰かが座ることがある。座らない日もある。

座った日は、私は何も聞かない。

ただ、隣にいる。それが、あのとき私にしてもらったことの、全部だから。

(了)

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