味を売る街
味覚が通貨になった街で、母は「甘い」から順に売っていった

概要
味覚を売買できる街。母は息子のために「甘い」「しょっぱい」「酸っぱい」を売り、最後に「苦い」だけが残った。取引所の窓口で働くことになった息子が知る、誰も教えてくれなかった制度の裏側と、母が病床で口にした一言。5,000字の書き下ろしオリジナル短編小説です。
本文
この街では、味覚が通貨だ。
私が七歳のとき、母は「甘い」を売った。家賃三か月分になった。その日から母は、砂糖も、蜂蜜も、熟れた桃も、何を口に入れても水と同じ味しかしなくなった。それでも母は毎晩、私のために煮物を作った。味見ができないので、母は私の顔を見て味を決めた。私が眉を寄せると醤油を足し、私が目を細めると火を止めた。
十歳のとき、母は「しょっぱい」を売った。私の学費だった。
十四歳のとき、「酸っぱい」を売った。理由は聞かなかった。聞かなくても、その年に父の借金の取り立てが来なくなったことは知っていた。
私が十七歳になった夏、母には「苦い」しか残っていなかった。
◆
味覚取引所は、駅の北側にある古いビルの三階にある。エレベーターはない。階段の踊り場に、色あせたポスターが貼ってある。
『あなたの味覚が、誰かの人生を変えます』
その下に小さく、『売却された味覚は返却されません』。
私は初めてそこに行った日のことを、はっきり覚えている。母に付き添って、階段を三階まで上がった。母は途中で二回休んだ。五十二歳にしては、休みすぎだった。
窓口には若い男が座っていた。無表情というより、表情という機能を売り払ったような顔をしていた。
「本日は、どの味を」
「苦い」と母は言った。
男はキーボードを叩いた。
「『苦い』は相場が低いです。市場に出回りすぎていまして」
「いくらですか」
男が言った金額は、私の想像の十分の一だった。母の顔を見た。母は表情を変えなかった。
「それで結構です」
「お待ちください」と私は言った。
二人が私を見た。
「僕のを売ります」
◆
母は初めて、大きな声を出した。
「だめ」
「なんで」
「あんたはまだ、おいしいものを知らないでしょう」
「知ってるよ。母さんの煮物」
母は黙った。それから、ひどく静かに言った。
「あれ、おいしくないのよ。ずっと前から。私、味がわからないから」
私は首を振った。
「おいしいよ」
「お世辞は」
「お世辞じゃない。だって母さん、僕の顔を見て味を決めてるだろ。僕の顔を見て作った料理が、僕の口に合わないわけがないじゃないか」
母の目が濡れた。窓口の男が、事務的に咳払いをした。
◆
結局、その日は何も売らずに帰った。
帰り道、母は久しぶりに話をした。売った味の話だ。
「『甘い』を売った次の日にね、お前が飴をくれたの。覚えてる?」
「覚えてない」
「三歳の子が、母親に飴をくれるんだよ。私、口に入れて、味がしなくて、それでも『おいしいね』って言った。あれが人生でいちばん、嘘をつくのがつらかった」
「じゃあ、なんで売ったの」
母は少し笑った。
「味がわからなくなっても、お前がいれば生きられると思ったから。逆はできないでしょ。味がわかっても、お前がいなかったら生きられない」
私はそのとき、この街の仕組みが心底憎いと思った。
◆
味覚取引所の仕組みについて、少し説明が必要だろう。
売られた味覚は、買われる。買うのは、味覚を失った人か、あるいは味覚を増やしたい人だ。この街には「重ね買い」という制度があって、他人の『甘い』を五人分買うと、甘さを五倍の解像度で感じられるようになる。美食家や料理人はこぞって買う。星のついたレストランのシェフは、平均で二十七人分の味覚を身につけていると言われる。
つまりこの街の高級料理は、貧しい人の舌の上に建っている。
私はそれを、高校の社会科の授業で習った。教師は「効率的な資源配分の一例です」と言った。教室の後ろの席で、誰かが小さく舌打ちをした。
◆
十八歳の春、私は取引所で働きはじめた。売る側ではなく、窓口の側だ。
理由は単純で、そこがいちばん給料が高かったからだ。味を売らずに済む仕事の中で。
窓口に座ると、一日に三十人ほどが階段を上がってくる。全員が同じ顔をしている。決意した顔ではない。決意する段階をとっくに過ぎて、ただ手続きをしに来た顔だ。
私は彼らに相場を告げ、書類を出し、署名をもらう。
そして最後に、規則で決められた文言を読む。
「売却された味覚は返却されません。あなたの人生から、その味は永久に失われます。よろしいですか」
全員がうなずく。一人残らず。
私はこの仕事を四年続けた。四年で、一万人ぶんの「よろしいです」を聞いた。
◆
窓口で、忘れられない客が三人いる。
一人目は、十九歳の女だった。全部売りたいと言った。甘い、しょっぱい、酸っぱい、苦い、うま味、全部。
私は規約を読み上げた。「五味すべての同時売却は、生命維持に支障をきたす恐れがあるため、原則お断りしております」
彼女は食い下がった。金額を聞いて、それが借金の額に足りると知って、また食い下がった。
私は最後にこう言った。
「全部売ると、水を飲んでも、砂を飲んでも、あなたには区別がつきません。人間は味で毒を見分けています。あなたは半年以内に、何かを間違えて口に入れます」
彼女は帰った。三か月後、また来た。今度は三味だけ売っていった。
二人目は、六十代の男だった。
彼は「買いたい」と言った。買い手が窓口に来ることは珍しい。買い手は普通、電話で済ませる。
「何をお求めですか」
「妻の『甘い』を」
私は帳簿を調べた。彼の妻が『甘い』を売ったのは、三十年前だった。買い手は転売を繰り返していて、現在は四人目の手にあった。
「買い戻すことはできますか」
「相手が売る意思を示せば、可能です。ただ、相場は当時の四十倍です」
彼は金額を聞いて、黙った。それから言った。
「三十年、私が知らないうちに、妻は甘いものを食べていなかったんです」
「気づかれなかったんですか」
「気づきました。十年前に。妻がケーキを食べて、味の話をしなかったので」
「十年、黙っておられた」
「聞けませんでした。聞いたら、なぜ売ったかを聞くことになる。なぜ売ったかは、たぶん、私のせいなので」
彼は結局、買わずに帰った。四十倍は、彼の全財産の二倍だった。
三人目は、子どもだった。
十歳くらいの男の子が、一人で階段を上がってきた。
「うります」
私は椅子から立ち上がった。
「未成年は売れません」
「おかあさんが、うってこいって」
私はカウンターを出て、その子の前にしゃがんだ。
「お母さんは、どこにいる?」
「したでまってる」
私は窓から見た。ビルの前に、若い女が立っていた。こちらを見上げていた。目が合った。彼女は目をそらさなかった。そらさない目だった。
私は子どもに、書類の代わりに飴を渡した。
「売れないと言ってきなさい」
「おこられる」
「怒られたら、また来なさい」
その子は三日後にまた来た。
私はまた飴を渡した。
それが二か月続いて、ある日から来なくなった。
どうなったのかは、知らない。知る方法はあったが、私はそれをしなかった。
この街で働くというのは、そういうことだった。
◆
母が倒れたのは、私が二十二歳の冬だった。
病院で、医者は長い名前の病名を言い、それから短い期間を言った。私はどちらもよく聞き取れなかった。
母は病室で、ずっと天井を見ていた。
「なにか食べたいものある?」と私は聞いた。
愚かな質問だった。母には『苦い』しか残っていない。
母は少し考えて、それから言った。
「桃」
私は病院を出て、駅前の果物屋で、いちばん高い桃を買った。三千円した。母の月々の年金の、四十分の一だ。
病室でむいて、母の口に入れた。
母はゆっくり噛んで、飲み込んで、そして言った。
「甘い」
私は手を止めた。
「え」
「甘いよ、これ」
母の目から涙が出ていた。
私は病室を飛び出して、取引所に走った。階段を三階まで、一度も休まずに上がった。
◆
同僚は帳簿を調べて、そして首を傾げた。
「記録上、お母様の『甘い』は二十年前に売却済みです。買い手は……ああ、これは」
「なんですか」
「買い手が、二年前に亡くなっています」
私は自分の呼吸が止まるのを感じた。
「買い手が死ぬと、味は」
「宙に浮きます。制度上は取引所の資産に戻る。でも実際には——」と同僚は言葉を選んだ。「戻る人がいるんです。ごくたまに。元の持ち主のところに」
「なんで、そんな重要なことを、誰も知らないんですか」
同僚は帳簿を閉じた。
「知られたら、みんな売るのをやめないでしょう。『いつか戻るかも』と思って売るのは、たぶん、いちばん残酷なやり方だから」
◆
母は三か月生きた。
そのあいだに、『しょっぱい』が戻ってきた。買い手が引っ越して、この街の外に出たからだと後で知った。味覚は街の外には持ち出せない。
母は味噌汁を飲んで、しょっぱすぎると文句を言った。私が作ったからだ。私は母のように、人の顔を見て味を決めるやり方を知らなかった。
しょっぱいが戻った日、母はベッドの上で泣いた。
「なんで泣くの」と私は聞いた。
「悔しいから」
「悔しい?」
「二十年よ」と母は言った。「二十年、味噌汁を作って、二十年、味がわからなかった。それが今さら戻って、あと三か月しか使えない」
私は返す言葉がなかった。
母は天井を見て、続けた。
「あの人たちね、たぶん、わかっててやってるの」
「取引所が?」
「戻ることがあるのを、隠してるでしょう。隠すってことは、知ってるってこと。知ってて、隠して、それで買い叩いてるの」
私はその夜、自分の職場を初めて憎んだ。四年間、私は一万人に「よろしいですか」と聞いた。一万人に、戻る可能性の話をしなかった。
規約に書いていないことは言うな、と教えられた。
言わないことも、嘘のうちだと、私は今なら言える。
◆
母は最後まで『酸っぱい』を取り戻さなかった。買い手はまだ生きていて、この街に住んでいる。どこかで、母の酸っぱさで、レモンを味わっている。
母が死んだ日、私は取引所を辞めた。
◆
今、私は駅の北側で、小さな定食屋をやっている。
味覚は全部持っている。売ったことは一度もない。だから料理はできる。ちゃんと味見ができる。
でも私は、味見をしない。
客の顔を見て、味を決める。眉が寄れば醤油を足し、目が細くなれば火を止める。うちの店に来る客の大半は、何かの味を売った人たちだ。彼らの舌には届かないものが多い。それでも、彼らの顔は嘘をつかない。顔で食べる人たちの顔を、私は毎日見ている。
店の壁に、一枚だけ紙を貼ってある。
『味は売れます。売った味は戻りません。まれに戻ります。それを期待して売った人は、たいてい後悔します。だから、売る前にここでご飯を食べていってください。腹が減っていると、人は間違えるので』
去年、あの子が来た。
飴を渡していた男の子だ。二十歳になっていた。背が伸びていて、最初は誰だかわからなかった。
「おぼえてますか」と彼は言った。
「飴の子か」
「はい」
彼は席に着いて、日替わり定食を頼んだ。私はいつも通り、彼の顔を見ながら味を決めた。彼は途中で一度、眉を寄せた。私は醤油を足しに戻った。
食べ終わって、彼は言った。
「うまかったです」
「そうか」
「おれ、まだ全部持ってます。五味」
私は手を止めた。
「お母さんは」
「三年前に死にました。最後、『苦い』だけ残ってました」
彼はコップの水を飲んだ。
「病院で、みかんをむいて食べさせたんです。母さん、『苦い』って言いました。みかんなのに」
私は何も言わなかった。
「でも、そのあとで、こう言ったんです。『でも、あんたの手はあったかい』って」
彼は笑った。泣きそうな笑い方だった。
「味って、口だけじゃないんですね」
私は厨房に戻って、彼のためにもう一杯、味噌汁をよそった。
◆
店の紙を読んで泣いた客が、これまでに十一人いる。
そのうち六人は、結局売った。五人は売らなかった。
五人は、少なくない数だと思っている。
◆
先週、取引所の元同僚が食べに来た。
まだあそこで働いている。窓口ではなく、査定の部署に移ったという。
「相場、下がってるよ」と彼は言った。「みんな売りすぎて、市場に味が余ってる」
「余った味は、どうなる」
「捨てる」
私は箸を落としそうになった。
「捨てる?」
「持ち主のいない味は、三年で腐る。腐った味は処分する。年間で何万人ぶんか」
私は厨房の壁を見た。母の『酸っぱい』は、まだ誰かの中にある。その人が死んで、誰にも渡らなければ、三年後に捨てられる。
「なあ」と私は聞いた。「あの会社、なんのためにあるんだ」
彼は少し考えて、正直に答えた。
「金のためだよ」
「それだけか」
「それだけだ」
彼は定食を食べ終わって、金を払って、帰った。帰り際に、こう言った。
「お前の店、味が濃いな」
「客の顔を見て決めてるから」
「じゃあ、俺、疲れた顔してたのか」
「してた」
彼は笑って、出ていった。
その背中を見ながら、私は思った。
この街の仕組みは、たぶん変わらない。私が定食屋をやっていても、変わらない。
ただ、腹が減っている人間が、正しく判断できる状態で階段を上がるかどうか。そこだけは、私が変えられる。
三階まで、四十七段ある。
その手前に、私の店がある。
(了)
出品者: Regnboga.net 公式