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小説その他

味を売る街

味覚が通貨になった街で、母は「甘い」から順に売っていった

味を売る街
#小説#短編小説#書き下ろし#幻想#家族

概要

味覚を売買できる街。母は息子のために「甘い」「しょっぱい」「酸っぱい」を売り、最後に「苦い」だけが残った。取引所の窓口で働くことになった息子が知る、誰も教えてくれなかった制度の裏側と、母が病床で口にした一言。5,000字の書き下ろしオリジナル短編小説です。

本文

この街では、味覚が通貨だ。

私が七歳のとき、母は「甘い」を売った。家賃三か月分になった。その日から母は、砂糖も、蜂蜜も、熟れた桃も、何を口に入れても水と同じ味しかしなくなった。それでも母は毎晩、私のために煮物を作った。味見ができないので、母は私の顔を見て味を決めた。私が眉を寄せると醤油を足し、私が目を細めると火を止めた。

十歳のとき、母は「しょっぱい」を売った。私の学費だった。

十四歳のとき、「酸っぱい」を売った。理由は聞かなかった。聞かなくても、その年に父の借金の取り立てが来なくなったことは知っていた。

私が十七歳になった夏、母には「苦い」しか残っていなかった。

味覚取引所は、駅の北側にある古いビルの三階にある。エレベーターはない。階段の踊り場に、色あせたポスターが貼ってある。

『あなたの味覚が、誰かの人生を変えます』

その下に小さく、『売却された味覚は返却されません』。

私は初めてそこに行った日のことを、はっきり覚えている。母に付き添って、階段を三階まで上がった。母は途中で二回休んだ。五十二歳にしては、休みすぎだった。

窓口には若い男が座っていた。無表情というより、表情という機能を売り払ったような顔をしていた。

「本日は、どの味を」

「苦い」と母は言った。

男はキーボードを叩いた。

「『苦い』は相場が低いです。市場に出回りすぎていまして」

「いくらですか」

男が言った金額は、私の想像の十分の一だった。母の顔を見た。母は表情を変えなかった。

「それで結構です」

「お待ちください」と私は言った。

二人が私を見た。

「僕のを売ります」

母は初めて、大きな声を出した。

「だめ」

「なんで」

「あんたはまだ、おいしいものを知らないでしょう」

「知ってるよ。母さんの煮物」

母は黙った。それから、ひどく静かに言った。

「あれ、おいしくないのよ。ずっと前から。私、味がわからないから」

私は首を振った。

「おいしいよ」

「お世辞は」

「お世辞じゃない。だって母さん、僕の顔を見て味を決めてるだろ。僕の顔を見て作った料理が、僕の口に合わないわけがないじゃないか」

母の目が濡れた。窓口の男が、事務的に咳払いをした。

結局、その日は何も売らずに帰った。

帰り道、母は久しぶりに話をした。売った味の話だ。

「『甘い』を売った次の日にね、お前が飴をくれたの。覚えてる?」

「覚えてない」

「三歳の子が、母親に飴をくれるんだよ。私、口に入れて、味がしなくて、それでも『おいしいね』って言った。あれが人生でいちばん、嘘をつくのがつらかった」

「じゃあ、なんで売ったの」

母は少し笑った。

「味がわからなくなっても、お前がいれば生きられると思ったから。逆はできないでしょ。味がわかっても、お前がいなかったら生きられない」

私はそのとき、この街の仕組みが心底憎いと思った。

味覚取引所の仕組みについて、少し説明が必要だろう。

売られた味覚は、買われる。買うのは、味覚を失った人か、あるいは味覚を増やしたい人だ。この街には「重ね買い」という制度があって、他人の『甘い』を五人分買うと、甘さを五倍の解像度で感じられるようになる。美食家や料理人はこぞって買う。星のついたレストランのシェフは、平均で二十七人分の味覚を身につけていると言われる。

つまりこの街の高級料理は、貧しい人の舌の上に建っている。

私はそれを、高校の社会科の授業で習った。教師は「効率的な資源配分の一例です」と言った。教室の後ろの席で、誰かが小さく舌打ちをした。

十八歳の春、私は取引所で働きはじめた。売る側ではなく、窓口の側だ。

理由は単純で、そこがいちばん給料が高かったからだ。味を売らずに済む仕事の中で。

窓口に座ると、一日に三十人ほどが階段を上がってくる。全員が同じ顔をしている。決意した顔ではない。決意する段階をとっくに過ぎて、ただ手続きをしに来た顔だ。

私は彼らに相場を告げ、書類を出し、署名をもらう。

そして最後に、規則で決められた文言を読む。

「売却された味覚は返却されません。あなたの人生から、その味は永久に失われます。よろしいですか」

全員がうなずく。一人残らず。

私はこの仕事を四年続けた。四年で、一万人ぶんの「よろしいです」を聞いた。

窓口で、忘れられない客が三人いる。

一人目は、十九歳の女だった。全部売りたいと言った。甘い、しょっぱい、酸っぱい、苦い、うま味、全部。

私は規約を読み上げた。「五味すべての同時売却は、生命維持に支障をきたす恐れがあるため、原則お断りしております」

彼女は食い下がった。金額を聞いて、それが借金の額に足りると知って、また食い下がった。

私は最後にこう言った。

「全部売ると、水を飲んでも、砂を飲んでも、あなたには区別がつきません。人間は味で毒を見分けています。あなたは半年以内に、何かを間違えて口に入れます」

彼女は帰った。三か月後、また来た。今度は三味だけ売っていった。

二人目は、六十代の男だった。

彼は「買いたい」と言った。買い手が窓口に来ることは珍しい。買い手は普通、電話で済ませる。

「何をお求めですか」

「妻の『甘い』を」

私は帳簿を調べた。彼の妻が『甘い』を売ったのは、三十年前だった。買い手は転売を繰り返していて、現在は四人目の手にあった。

「買い戻すことはできますか」

「相手が売る意思を示せば、可能です。ただ、相場は当時の四十倍です」

彼は金額を聞いて、黙った。それから言った。

「三十年、私が知らないうちに、妻は甘いものを食べていなかったんです」

「気づかれなかったんですか」

「気づきました。十年前に。妻がケーキを食べて、味の話をしなかったので」

「十年、黙っておられた」

「聞けませんでした。聞いたら、なぜ売ったかを聞くことになる。なぜ売ったかは、たぶん、私のせいなので」

彼は結局、買わずに帰った。四十倍は、彼の全財産の二倍だった。

三人目は、子どもだった。

十歳くらいの男の子が、一人で階段を上がってきた。

「うります」

私は椅子から立ち上がった。

「未成年は売れません」

「おかあさんが、うってこいって」

私はカウンターを出て、その子の前にしゃがんだ。

「お母さんは、どこにいる?」

「したでまってる」

私は窓から見た。ビルの前に、若い女が立っていた。こちらを見上げていた。目が合った。彼女は目をそらさなかった。そらさない目だった。

私は子どもに、書類の代わりに飴を渡した。

「売れないと言ってきなさい」

「おこられる」

「怒られたら、また来なさい」

その子は三日後にまた来た。

私はまた飴を渡した。

それが二か月続いて、ある日から来なくなった。

どうなったのかは、知らない。知る方法はあったが、私はそれをしなかった。

この街で働くというのは、そういうことだった。

母が倒れたのは、私が二十二歳の冬だった。

病院で、医者は長い名前の病名を言い、それから短い期間を言った。私はどちらもよく聞き取れなかった。

母は病室で、ずっと天井を見ていた。

「なにか食べたいものある?」と私は聞いた。

愚かな質問だった。母には『苦い』しか残っていない。

母は少し考えて、それから言った。

「桃」

私は病院を出て、駅前の果物屋で、いちばん高い桃を買った。三千円した。母の月々の年金の、四十分の一だ。

病室でむいて、母の口に入れた。

母はゆっくり噛んで、飲み込んで、そして言った。

「甘い」

私は手を止めた。

「え」

「甘いよ、これ」

母の目から涙が出ていた。

私は病室を飛び出して、取引所に走った。階段を三階まで、一度も休まずに上がった。

同僚は帳簿を調べて、そして首を傾げた。

「記録上、お母様の『甘い』は二十年前に売却済みです。買い手は……ああ、これは」

「なんですか」

「買い手が、二年前に亡くなっています」

私は自分の呼吸が止まるのを感じた。

「買い手が死ぬと、味は」

「宙に浮きます。制度上は取引所の資産に戻る。でも実際には——」と同僚は言葉を選んだ。「戻る人がいるんです。ごくたまに。元の持ち主のところに」

「なんで、そんな重要なことを、誰も知らないんですか」

同僚は帳簿を閉じた。

「知られたら、みんな売るのをやめないでしょう。『いつか戻るかも』と思って売るのは、たぶん、いちばん残酷なやり方だから」

母は三か月生きた。

そのあいだに、『しょっぱい』が戻ってきた。買い手が引っ越して、この街の外に出たからだと後で知った。味覚は街の外には持ち出せない。

母は味噌汁を飲んで、しょっぱすぎると文句を言った。私が作ったからだ。私は母のように、人の顔を見て味を決めるやり方を知らなかった。

しょっぱいが戻った日、母はベッドの上で泣いた。

「なんで泣くの」と私は聞いた。

「悔しいから」

「悔しい?」

「二十年よ」と母は言った。「二十年、味噌汁を作って、二十年、味がわからなかった。それが今さら戻って、あと三か月しか使えない」

私は返す言葉がなかった。

母は天井を見て、続けた。

「あの人たちね、たぶん、わかっててやってるの」

「取引所が?」

「戻ることがあるのを、隠してるでしょう。隠すってことは、知ってるってこと。知ってて、隠して、それで買い叩いてるの」

私はその夜、自分の職場を初めて憎んだ。四年間、私は一万人に「よろしいですか」と聞いた。一万人に、戻る可能性の話をしなかった。

規約に書いていないことは言うな、と教えられた。

言わないことも、嘘のうちだと、私は今なら言える。

母は最後まで『酸っぱい』を取り戻さなかった。買い手はまだ生きていて、この街に住んでいる。どこかで、母の酸っぱさで、レモンを味わっている。

母が死んだ日、私は取引所を辞めた。

今、私は駅の北側で、小さな定食屋をやっている。

味覚は全部持っている。売ったことは一度もない。だから料理はできる。ちゃんと味見ができる。

でも私は、味見をしない。

客の顔を見て、味を決める。眉が寄れば醤油を足し、目が細くなれば火を止める。うちの店に来る客の大半は、何かの味を売った人たちだ。彼らの舌には届かないものが多い。それでも、彼らの顔は嘘をつかない。顔で食べる人たちの顔を、私は毎日見ている。

店の壁に、一枚だけ紙を貼ってある。

『味は売れます。売った味は戻りません。まれに戻ります。それを期待して売った人は、たいてい後悔します。だから、売る前にここでご飯を食べていってください。腹が減っていると、人は間違えるので』

去年、あの子が来た。

飴を渡していた男の子だ。二十歳になっていた。背が伸びていて、最初は誰だかわからなかった。

「おぼえてますか」と彼は言った。

「飴の子か」

「はい」

彼は席に着いて、日替わり定食を頼んだ。私はいつも通り、彼の顔を見ながら味を決めた。彼は途中で一度、眉を寄せた。私は醤油を足しに戻った。

食べ終わって、彼は言った。

「うまかったです」

「そうか」

「おれ、まだ全部持ってます。五味」

私は手を止めた。

「お母さんは」

「三年前に死にました。最後、『苦い』だけ残ってました」

彼はコップの水を飲んだ。

「病院で、みかんをむいて食べさせたんです。母さん、『苦い』って言いました。みかんなのに」

私は何も言わなかった。

「でも、そのあとで、こう言ったんです。『でも、あんたの手はあったかい』って」

彼は笑った。泣きそうな笑い方だった。

「味って、口だけじゃないんですね」

私は厨房に戻って、彼のためにもう一杯、味噌汁をよそった。

店の紙を読んで泣いた客が、これまでに十一人いる。

そのうち六人は、結局売った。五人は売らなかった。

五人は、少なくない数だと思っている。

先週、取引所の元同僚が食べに来た。

まだあそこで働いている。窓口ではなく、査定の部署に移ったという。

「相場、下がってるよ」と彼は言った。「みんな売りすぎて、市場に味が余ってる」

「余った味は、どうなる」

「捨てる」

私は箸を落としそうになった。

「捨てる?」

「持ち主のいない味は、三年で腐る。腐った味は処分する。年間で何万人ぶんか」

私は厨房の壁を見た。母の『酸っぱい』は、まだ誰かの中にある。その人が死んで、誰にも渡らなければ、三年後に捨てられる。

「なあ」と私は聞いた。「あの会社、なんのためにあるんだ」

彼は少し考えて、正直に答えた。

「金のためだよ」

「それだけか」

「それだけだ」

彼は定食を食べ終わって、金を払って、帰った。帰り際に、こう言った。

「お前の店、味が濃いな」

「客の顔を見て決めてるから」

「じゃあ、俺、疲れた顔してたのか」

「してた」

彼は笑って、出ていった。

その背中を見ながら、私は思った。

この街の仕組みは、たぶん変わらない。私が定食屋をやっていても、変わらない。

ただ、腹が減っている人間が、正しく判断できる状態で階段を上がるかどうか。そこだけは、私が変えられる。

三階まで、四十七段ある。

その手前に、私の店がある。

(了)

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