透明な郵便配達員
誰の記憶にも残らない男が、忘れられたい人の記憶を回収して配る

概要
人の中に残った「自分の記憶」を回収し、別の誰かに配達する男。誰の記憶にも残れない体質の彼のもとに、息子から自分を消してほしいという母親の依頼が届く。配達先の欄に書かれていたのは、依頼人自身の名前だった。5,000字の書き下ろしオリジナル短編小説です。
本文
忘れられたい人からの依頼が、その日は三件あった。
私の仕事は、記憶を回収して配達することだ。郵便物ではない。人が誰かの中に残してしまった自分の記憶を、袋に詰めて持ち帰る。依頼人は「消えたい」と言うが、正確には消えるのではない。誰かの頭の中にある自分の像を、こちらが引き取るだけだ。引き取ったものは、別の誰かに配る。それが規則だった。
最初の依頼人は、四十代の女性だった。喫茶店の奥の席で、彼女はコーヒーに手をつけないまま言った。
「息子の中から、私を抜いてください」
私は鞄を膝に乗せたまま、彼女の指を見ていた。爪が短く切りそろえられている。人の爪を見ると、その人がどれだけ他人に触れる仕事をしているかがわかる。彼女は誰にも触れていない爪をしていた。
「抜けるのは、あなたの分だけです」と私は言った。「息子さんが自分で作った記憶——たとえば、あなたを憎んだこととか、あなたを待った時間とか——それは息子さんのものなので、こちらでは触れません」
「じゃあ、何が残るんですか」
「あなたのいない場所に、あなたの形の穴が残ります」
彼女はそこで初めてコーヒーに口をつけた。冷めていたはずだ。
「穴のほうが、まだましです」
依頼書にサインをもらい、私は席を立った。
◆
この仕事について、説明しておいたほうがいいだろう。
私は透明ではない。人には見える。ただ、記憶に残らない。私と会った人は、私と会ったことを覚えていられない。だから配達ができる。誰の記憶の中にも入っていけるし、出ていける。私という存在が、他人の記憶の中で摩擦を起こさないからだ。
この体質になったのがいつからなのか、自分でもわからない。物心ついたときには、教師は私の名前を毎朝聞き直したし、母は私を廊下ですれ違うたびに「どちら様?」と言った。父は最後まで私を息子だと思っていたが、それは父が私を見ていなかったからだと思う。見ない人の中では、私は形を保てた。
二十歳のとき、私を雇いたいという人が現れた。会社の名前はない。名刺には配達区域だけが書かれていた。仕事の内容を聞いて、私は即答した。他にできることがなかったからだ。
◆
息子は大学生だった。安いアパートの、洗っていない皿が積まれた台所で、彼はカップ麺の湯を切っていた。私が入ってきても、彼は驚かなかった。私は驚かれない。
「母の記憶を、回収しに来ました」
「ふうん」
彼は麺をすすった。それから、思い出したように顔を上げた。
「持っていくって、どういうこと」
「あなたの中から、お母さんに関する記憶が抜けます。抜けたところに、お母さんの形をした空白が残ります。空白があること自体は、あなたにはわかります。ただ、そこに何が入っていたかはわからなくなる」
「便利だな」
「便利ではありません。空白は痛みます」
彼は箸を止めた。
「痛むの?」
「歯を抜いた跡と同じです。もうないのに、しばらく舌が探しに行く」
彼はしばらく黙って、それから笑った。笑い方が母親に似ていた。こういうものは記憶ではないので、回収できない。血の中に書いてあるものは、私の管轄外だ。
「あの人、何て言ってた」
「消えたい、と」
「そうじゃなくて」と彼は言った。「何て言って、俺の中から出ていこうとしてるの」
私は依頼書を思い出した。備考欄に、彼女はひとことだけ書いていた。
——この子に、私を背負わせたくない。
伝えるべきかどうか、私は迷った。伝えれば、それは新しい記憶になる。回収した空白の中に、たったひとつ母の言葉が残ってしまう。それは規則違反だ。
私は黙って鞄を開けた。
◆
回収には音がある。細い、糸を巻き取るような音だ。彼は目を閉じていた。私は彼の頭の中から、母親を一枚ずつはがしていった。
運動会の日の、彼女の帽子。 熱を出した夜の、彼女の手の冷たさ。 中学の三者面談で、彼女が担任に頭を下げた角度。 高校二年の冬、彼女が家を出ていったときの、玄関のたたきに残った靴の跡。 その後の五年間、彼が彼女に一度も連絡しなかったこと——これは彼のものなので、置いていく。
最後に一枚、深いところに引っかかっているものがあった。彼が三つか四つのころだ。彼女が彼を抱いて、真っ暗な部屋で謝っている。ごめんね、ごめんね、と繰り返している。何に対する謝罪なのかは、記憶の中にも書かれていない。
私はそれをはがして、袋に入れた。
彼が目を開けたとき、部屋の空気は少し軽くなっていた。彼は自分の胸のあたりに手を当てて、それから怪訝な顔をした。
「なんか、ここ」
「痛みますか」
「いや。……なんか、置き忘れた気がする」
「そのうち慣れます」
私は玄関に向かった。ドアノブに手をかけたとき、彼が言った。
「あんた、誰だっけ」
私は答えなかった。答えても、彼は覚えていられない。
◆
その日の二件目は、簡単だった。
六十代の男性が、四十年前に別れた妻の中から自分を抜いてほしいと言った。妻はすでに再婚していて、孫が三人いた。私はその家に行き、台所で豆を煮ている女性の中から、四十年前の若い男を回収した。三十枚もなかった。四十年というのは、そういう長さだ。ほとんど残っていない。
依頼人にそれを報告すると、彼はしばらく黙って、それから聞いた。
「何枚ありました」
「二十八枚です」
彼は少し笑った。
「多いな」
「少ないほうです」
「いや」と彼は言った。「四十年会ってない男を、二十八枚も置いといてくれたなら、多い」
私はその日、初めて回収を後悔した。回収してしまえば、二十八枚は消える。彼女の中に、彼はもういない。彼はそれを知っていて、それでも抜けと言った。
三件目は、依頼人の家に行ったら、依頼人が死んでいた。
これはたまにある。回収を頼む人間は、だいたい消えたがっている。消えたい理由は人によるが、消え方には限りがある。
規則では、依頼人が死亡した場合、依頼は無効になる。私は書類に「執行前に依頼人死亡」と書いて、部屋を出た。
出る前に、机の上の写真立てを見た。若い女性が写っていた。裏返すと、日付と名前が書いてあった。日付は二十二年前だった。
この人が誰の中から消えたかったのか、私は知ることができない。知る権限がない。
◆
事務所に戻った。回収した記憶は、規則によりその日のうちに配らなければならない。腐るからだ。
配達先は選べない。袋を開けると、行き先が浮かび上がる仕組みになっている。誰がその仕組みを作ったのか、私は知らない。
その夜、母親の記憶の袋を開けた私は、行き先を見て手を止めた。
依頼人本人の名前が書かれていた。
こんなことは初めてだった。私は規則書をめくった。該当する項目はなかった。禁止されてもいなかった。
私は袋を持って、彼女のアパートに向かった。
◆
彼女は寝ていなかった。テーブルに座って、何も置かれていない場所を見ていた。私が入っていくと、彼女はゆっくり顔を上げた。
「終わりましたか」
「終わりました。ただ——」
私は袋をテーブルに置いた。
「配達先が、あなたになっています」
彼女は袋を見た。それから、意味がわかったらしく、口を開けた。
「それは、あの子の中にあった私、ですか」
「そうです」
「なぜ私に」
「わかりません。ただ、規則では、配らなければなりません」
彼女は長いあいだ袋を見ていた。中身が見えるわけではない。ただの布の袋だ。それでも、彼女は見ていた。
「入れたら、どうなるんです」
「あなたの中に、息子さんから見たあなたが入ります。あなたが自分をどう思っているかとは、たぶん違うものです」
「違うんですか」
「たいてい、違います」
彼女は手を伸ばしかけて、止めた。
「怖いです」
「そうでしょうね」
「もし、あの子が私を、ずっと憎んでいたら」
「憎しみは息子さんのものなので、この中にはありません」と私は言った。「ここに入っているのは、あなたの姿だけです。運動会の帽子と、熱の夜の手と、頭を下げた角度と、玄関の靴の跡です」
彼女の顔が崩れた。私はそれを見なかったふりをした。見なかったふりをするのは、この仕事で唯一、私が自分の意思でやっていることだ。
「あとひとつ」と私は言った。「あなたが、あの子を抱いて謝っている場面があります。真っ暗な部屋です。何に謝っているのかは、書いてありませんでした」
彼女は両手で顔を覆った。指の隙間から声が漏れた。
「あの子を、産んだことです」
私は黙っていた。
「産まなければよかったなんて、思ってません。一度も。ただ、こんな親のところに来させてしまって、申し訳なくて。ずっと。三十年、ずっと」
彼女は顔を上げた。目が赤かった。
「その気持ちを、あの子は覚えてたんですか」
「言葉は覚えていません。ただ、抱かれた腕の力を覚えていました」
彼女は袋に手を伸ばした。今度は止まらなかった。
◆
彼女が袋を開けたとき、部屋の空気が変わった。
記憶が人の中に入るときには、音がない。回収のときは糸を巻く音がするのに、配達のときは無音だ。それがずっと不思議だった。今は、理由がわかる気がする。入るときは、その人の中にもともと空いていた形に、ぴったり嵌まるからだ。嵌まるものは音を立てない。
彼女は目を閉じていた。まぶたの裏で、三十年ぶんが動いているはずだった。
運動会の帽子。あの日、彼女は帽子を目深にかぶっていた。息子の記憶の中では、その帽子のせいで彼女の顔が見えなかった。顔が見えないまま、彼女は手を振っていた。
熱の夜の手。彼女はその夜、五時間おきに息子の額に手を当てた。息子の記憶の中では、その手はいつも冷たかった。彼女がずっと水で冷やしていたからだ。
三者面談の角度。彼女は担任に、四十五度より深く頭を下げた。息子はその角度を、恥ずかしいと思った。恥ずかしいと思ったことは息子のものなので、袋には入っていない。入っているのは、角度だけだ。
玄関の靴の跡。彼女が出ていった日、たたきに水が残っていた。雨の日だった。息子は五年間、その水の跡だけを覚えていた。
彼女が目を開けたとき、頬が濡れていた。
「こんなに」と彼女は言った。「こんなに、私、いたんですね」
「いました」
「私、いなかったつもりでいました。あの子の中に、私なんかいないと思ってました」
「みんな、そう思います」と私は言った。「自分の姿は、自分の中にはないので」
◆
配達が終わると、私はいつも少しだけ軽くなる。抱えていたものが、正しい場所に着いたからだ。
部屋を出るとき、彼女が私を呼び止めた。
「あなたのことも、私は忘れるんですか」
「忘れます」
「それは、寂しくないですか」
誰にも聞かれたことのない質問だった。私は少し考えて、正直に答えることにした。
「寂しいです」
「じゃあ、誰かに回収してもらえばいいのに。あなたの、寂しさを」
私は笑った。たぶん、この仕事を始めてから初めて笑った。
「回収できるのは、他人の中にある自分だけです。自分の中にある自分は、誰にも運べません」
彼女は少しのあいだ、私を見ていた。それから言った。
「じゃあ、私が今あなたを覚えている数秒のあいだだけ、覚えておきます。数秒でも、ゼロよりはましでしょう」
私は礼を言って、外に出た。
階段を降りながら、後ろの部屋の明かりが消えるのを待った。消えた。彼女の中から私が消えた合図だ。いつもならそれで終わりだった。
その夜だけ、私はもう一度階段を上がって、ドアの前に立った。ノックはしなかった。ただ、五分ほど立っていた。
中で、人が泣いている音がした。回収されなかった、その人自身のものの音だった。
私はそれを聞いていた。誰の記憶にも残らない耳で。それでも、聞いたことは私の中に残る。
私の中にあるものだけは、誰も運べない。運べないものを、私は運ぶ仕事をしている。
◆
一度だけ、規則を破ろうとしたことがある。
父が死んだとき、私は父の家に行って、鞄を開けた。父の中に、私がどれだけ残っているか見たかった。父は私を見ていた唯一の人間だったから、たくさんあると思っていた。
死んだ人からは、回収できない。
それを、私はそのとき初めて知った。死ぬと、その人の中にあった全部が、一度に配達される。誰に配達されるのかは決まっていない。空いている場所を探して、勝手に行く。
だから、父の中の私は、どこかの見知らぬ人の中にある。
その人は、たまに知らない子どもの顔を思い出すのだろう。誰だかわからないまま、少し懐かしいと感じるのだろう。
それでいい、と私は思っている。
少なくとも、どこかにはある。
◆
翌朝、新しい依頼が四件、机に置かれていた。
一件目の備考欄に、こう書かれていた。
『息子から、私を抜いてください』
私は名前を見た。昨日の依頼人ではなかった。別の人だ。
こういう依頼は、毎日来る。毎日来るということは、毎日、誰かが誰かの中から出ていこうとしているということだ。
私は鞄を持って、外に出た。
空は晴れていた。誰も私を覚えない街を、私は歩いていく。
(了)
出品者: Regnboga.net 公式