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小説その他

十三階の住人

存在しない階に、選ばなかったほうの自分が住んでいる

十三階の住人
#小説#短編小説#書き下ろし#幻想#人生の選択

概要

十二階建てのマンションで、毎晩十一時四十分にだけ浮かぶ「十三階」のボタン。そこは人生の引っ越しに失敗した人が住む階だった。二番目のドアの表札には、自分の名前が書かれていた。5,000字の書き下ろしオリジナル短編小説です。

本文

このマンションに十三階はない。エレベーターのボタンは十二までしかなく、その上はすぐに屋上だ。設計図でもそうなっている。管理会社に確認したから間違いない。

それなのに、毎晩十一時四十分になると、十二と屋上のあいだの何もない場所に、ボタンが浮かぶ。

押したことはない。押せないと思っていた。指を伸ばしても、そこには冷たいステンレスの壁があるだけだった。

押せてしまったのは、越してきて三か月目の夜だ。残業で疲れきって、酔っていて、私は壁に手をついた。ちょうどその位置に。

指の下で、何かがへこんだ。

エレベーターが、上がりはじめた。

扉が開くと、廊下があった。

十二階と同じ造りだ。灰色のカーペット、四つのドア、突き当たりの窓。違うのは、匂いだった。誰かが煮物を作っている匂いがした。

私は動けなかった。動けないまま、扉が閉まるのを待った。閉まらなかった。エレベーターは、私が降りるのを待っていた。

仕方なく、私は降りた。

背後で扉が閉まり、箱が降りていく音がした。

突き当たりのドアが開いて、女の人が顔を出した。四十くらい。エプロンをしていた。

「あら」と彼女は言った。「新しい人?」

「あの、すみません、間違えました」

「間違えて来る人はいないのよ、ここ」と彼女は言った。「押せた人しか来られないから」

彼女は私を招き入れた。私は断ろうとして、断りきれずに入った。断りきれなかったのは、煮物の匂いのせいだ。私はその日、昼から何も食べていなかった。

部屋は普通の2LDKだった。テーブルがあり、テレビがあり、カレンダーがあった。カレンダーは、七年前のものだった。

「座って」と彼女は言った。

私は座った。彼女は小鉢に煮物を盛って出してきた。里芋とこんにゃくと、鶏肉。

食べた。おいしかった。

「ここは、何なんですか」と私は聞いた。

彼女は向かいに座って、自分のぶんの茶を飲んだ。

「引っ越しそこねた人が住むところ」

彼女の説明は、こうだった。

人はときどき、引っ越しに失敗する。荷物のことではない。人生の場所を移りそこねる、という意味だ。

仕事を辞めるはずだった人が辞めなかったとき。  別れるはずだった人が別れなかったとき。  あるいは、死ぬはずだった人が死ななかったとき。

そういうとき、移れなかったぶんの自分が、この階に溜まる。

「私は七年前に、この下の階に住んでたの」と彼女は言った。「離婚するはずだった。書類も書いた。判も押した。玄関まで持っていった」

「出さなかったんですね」

「出さなかった。それで、出したほうの私が、ここに残った」

私は箸を止めた。

「じゃあ、下には」

「今も住んでる。夫と。仲は悪くないのよ、あれから。ただ、あの日出していたら行けたはずの場所が、ここになった」

彼女は窓の外を見た。窓の外は、下の階から見える景色と同じだった。同じ駐車場、同じ街灯、同じ交差点。

「ここから、下の私が見えるの。ときどき、ベランダに出てくる」

私はその夜、階段で降りた。エレベーターは十三階に停まらないので、非常階段を使うしかなかった。降りている途中で気づいたが、階段の踊り場には数字が振られていて、十二の上は「12A」と書かれていた。誰かが、あることにはしておいたのだ。

部屋に戻って、私は眠れなかった。

自分が引っ越しそこねた場所のことを考えていた。

二年前、私は会社を辞めるはずだった。

辞表を書いて、鞄に入れて、三か月持ち歩いた。三か月のあいだに、上司が代わり、給料が少し上がり、辞める理由が薄まっていった。薄まったのであって、消えたのではない。

辞めていたら、何になっていたのか。

私は知らない。知りようがない。

でも、十三階には、それが住んでいる。

次の夜、私は十一時四十分にエレベーターに乗った。

壁を押した。押せた。

十三階に着いて、私は廊下の四つのドアを見た。前回、彼女の部屋に入るときは気づかなかったが、それぞれに表札がある。

二番目のドアの表札に、私の名前があった。

私は震える手でノブを回した。鍵はかかっていなかった。

部屋の中には、私がいた。

同じ顔で、同じ背丈で、髪だけが少し長かった。彼はテーブルで何かを書いていた。ノートパソコンではなく、紙に、手で。

顔を上げて、彼は言った。

「来ると思ってた」

「……何してるんですか」

「小説」と彼は言った。「二年書いてる。まだ一行も人に読ませてない」

私はテーブルの端に座った。原稿の束が積まれていた。厚さは十センチ以上あった。

「売れてるんですか」

彼は笑った。

「ここ、経済がないんだよ。金も要らないし、腹も減らない。だからただ書いてるだけ。書いても誰も読まない」

「じゃあ、なんで書くんですか」

「書かない自分が下にいるから」

私は黙った。

彼は続けた。

「あんたは書かないほうを選んだ。俺は書くほうを選んだ。それだけの話。どっちかが正しいわけじゃない。ただ、俺はここから出られない。あんたは出られる」

「代わってほしいですか」

「思ったこともない」と彼は即答した。「あんたには、給料があるだろ。健康保険もあるだろ。母親に仕送りしてるだろ。俺にはそれが全部ない。ここには誰もいない。煮物のおばさんくらいしか」

私は原稿を見た。一行目が見えた。

『このマンションに十三階はない。』

私は顔を上げた。

「これ」

「あんたのことを書いてる」と彼は言った。「俺が書けるのは、俺がならなかったほうの人生だけだから」

私はそれから、月に何度か十三階に行くようになった。

彼と話し、原稿を読み、煮物をもらった。四つのドアのうち、三番目には老人が住んでいた。定年後に田舎に帰るはずだった人だ。四番目は空き部屋だった。

三番目の老人とも、話すようになった。

七十くらいの男で、いつも将棋盤の前に座っていた。相手はいない。一人で両方を指している。

「田舎に帰るはずだったんですか」と私は聞いた。

「定年の日にな。切符も買ってた」

「なぜ行かなかったんですか」

老人は駒を動かした。

「妻が、行きたくないと言った」

「それだけですか」

「それだけだ」

彼は次の駒を持った。

「四十年、俺は妻のために働いた。田舎に帰るのが、俺の四十年ぶんのごほうびだと思ってた。だから妻も同じだと思ってた。同じじゃなかった」

「怒らなかったんですか」

「怒った。三日怒って、四日目に、切符を捨てた」

彼は駒を置いた。

「捨てた日から、俺はここにいる」

「下のあなたは」

「下にもいる。今も、東京のマンションで、妻と暮らしてる。仲は悪くない。旅行にも行く。孫も来る」

彼は盤面を見たまま言った。

「幸せなんだよ、あっちは。俺が言うんだから間違いない」

「じゃあ、なぜここに」

「幸せと、行きたかった場所は、別だからだ」

私はその言葉を、しばらく飲み込めなかった。

老人は、ふっと笑った。

「あんた、まだ若いからわからんだろう。幸せになったら、行きたかった場所に行かなくていいと思うだろ。違うんだ。幸せになると、行かなかった場所のほうが、余計にはっきりする」

「空き部屋って、どういうことですか」と私は煮物の彼女に聞いた。

「まだ、選びそこねてない人の部屋」

私は背中が寒くなった。

「じゃあ、いつか誰かが」

「そう。そのうち埋まる。ここはいつも満室にならない。誰かが選びそこねると埋まって、誰かが下で決心すると、空く」

「空くって、住んでる人はどうなるんですか」

彼女は少し寂しそうな顔をした。

「消える。というか、たぶん、下の本人に戻る」

「戻ったら、どうなるんですか」

「知らない」と彼女は言った。「戻った人を、見たことがないから」

私は台所を見た。鍋がかかっている。彼女はここで、七年間、誰にも食べさせない煮物を作り続けている。

「なぜ、料理を作るんですか。腹は減らないんでしょう」

彼女は少し困った顔をした。

「習慣なのよ」

「習慣」

「二十年、毎日夕方になると台所に立ってた。立つと手が勝手に動くの。あの人が帰ってくる時間だから」

「旦那さんは、来ないですよね」

「来ない」

彼女は鍋の蓋を開けて、少しかき混ぜた。湯気が上がった。

「でもね、ここに来る人がたまにいるでしょう。あなたみたいに、押せちゃった人が」

「はい」

「そういう人は、たいてい腹を減らしてる。下から来た人には、腹があるから」

私は最初の夜のことを思い出した。昼から何も食べていなかった。断りきれなかったのは、匂いのせいだった。

「僕のために作ってたんですか」

「あなたじゃない。誰かのため」と彼女は言った。「七年で、十一人来た。全員に食べさせた」

「十一人は、どうなりました」

「九人は、下で決心して、来なくなった。二人は、まだ来る」

彼女は蓋を閉めた。

「決心して来なくなるのが、いちばんいいの。私はそのために煮てる」

私は何度も、彼の原稿を読んだ。

うまいとは思わなかった。文章はぎこちなく、会話は不自然で、比喩は空回りしていた。

それでも、最後まで読めた。

最後まで読める文章というのは、実はそんなに多くない。私は編集の仕事をしていたわけではないが、会社で毎日、山のような文書を読んでいた。ほとんどは三行で飽きた。

彼の原稿は、十センチ全部読めた。

「これ、面白いよ」と私は言った。

彼は顔を上げなかった。

「ここには読者がいないから、面白いかどうかは意味がない」

「僕が読んだ」

「あんたは俺だ」

「違うよ」と私は言った。「僕は、書かなかったほうの人間だ。書かなかった人間が読んで面白かったなら、それはたぶん、書かない人間にも届くってことだ」

彼は初めて手を止めた。

しばらく黙って、それから言った。

「そういうことを、二年間、誰にも言われなかった」

「言う人がいないからだろ」

「いや」と彼は言った。「下にいたときも、言われなかった。俺が誰にも見せなかったからだ」

私はそこで、自分と彼の違いが、思っていたより小さいことに気づいた。

彼は書いたが、見せなかった。  私は書かなかった。

どちらも、外に出していないという点では同じだ。

私は決心をした。

辞表を出した。三年遅れの辞表だ。上司は驚いて、慰留して、それから諦めた。最終出社日、私は段ボール一箱ぶんの荷物を持って帰った。

その夜、十一時四十分にエレベーターに乗って、壁を押した。

押せなかった。

何度押しても、ただの冷たいステンレスだった。

私は非常階段を上がった。十二階から先に、階段はなかった。「12A」の表示もなかった。ペンキの塗り跡だけがあった。

私は自分の部屋に戻り、机に座った。

引き出しを開けると、原稿用紙の束が入っていた。十センチ以上あった。私が買った覚えのないものだ。

一行目に、こう書かれていた。

『このマンションに十三階はない。』

二行目から先は、私の字だった。私が書いた覚えのない、私の字。

私は最後のページまでめくった。最後の一行だけが空白で、その下に、彼の字でこう書いてあった。

『続きは、そっちで』

半年前、原稿を新人賞に出した。

落ちた。一次選考で落ちた。

落選通知が来た日、私はエレベーターに乗って、壁を押した。

押せなかった。

当たり前だ。私はまだ、書くのをやめていない。

私は非常階段を十二階まで上がって、屋上に出た。

夜だった。街が下に広がっていた。この街のどこかに、同じように選びそこねた人が住むマンションが、いくつもあるのだろう。十三階のない建物の、十三階に。

私は手すりに寄りかかって、煮物の彼女のことを考えた。

彼女は今も、あそこで煮物を作っている。誰にも食べさせない煮物を。下の自分がベランダに出てくるのを、窓から見ている。

彼女は、出したかった離婚届を、永遠に出さないままだ。

でも、それは彼女が下で決めない限り、変わらない。

私は彼女に、それを言えなかった。

私は今、これを書いている。

仕事はない。貯金は減っている。母への仕送りは半分にしてもらった。売れる保証はどこにもない。

落ちた原稿を、私は書き直している。三回目だ。

三回目でも落ちるかもしれない。四回目も、五回目も。

ただ、机の上には十センチの原稿があって、その最後の一行を、私が埋めることになっている。

夜十一時四十分になると、私はときどき手を止めて、天井を見上げる。

誰も住んでいない部屋が、ひとつ増えたはずだ。

その部屋には、いつか、書くのをやめた私が入るのかもしれない。

入らせないために、私は今日も書いている。

(了)

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出品者: Regnboga.net 公式