返品された声
買った声が、夜ごと知らない女の名前を呼ぶ

概要
声とは、その人が誰に何を言ってきたかの総量である——声を売買する店で十一年働く査定士のもとへ、「買った声が勝手に喋る」という返品の相談が来る。前の持ち主が四十八年間、たったひとりに使い続けた声だった。5,000字の書き下ろしオリジナル短編小説です。
本文
声を買い取る店で働いて、十一年になる。
声は、喉から出るものではない。喉は出口にすぎない。声は、その人が今まで誰に何を言ってきたかの総量だ。だから、たくさん謝ってきた人の声は柔らかく、たくさん命令してきた人の声は硬い。私はそれを聞き分けて、値をつける。
買い取った声は、声を失った人に売る。あるいは、別の声がほしい人に売る。
この仕事で唯一の禁忌は、返品だ。
一度売った声は、戻せない。契約書の第七条にそう書いてある。太字で書いてある。
それでも、月に一度は返品の相談が来る。
◆
その日の客は、三十歳くらいの男だった。
「返品したいんです」
私はいつもの返事をした。
「規約上、承れません」
「金は要りません。返すので、引き取ってください」
「引き取れません。声は物ではないので、こちらの棚に戻すことができません」
男は肩を落とした。
「じゃあ、どうすればいいんですか。この声、僕の中で、勝手に喋るんです」
私は手を止めた。
これは、聞いたことのある症状だった。
◆
声には残留がある。
人生の総量が声なのだから、当然だ。買った声には、前の持ち主の癖が残っている。よく使った言い回し、間の取り方、笑い方。たいていは薄い。三か月もすれば馴染む。
ごくまれに、馴染まない声がある。
前の持ち主が、まだ言い足りていない場合だ。
「その声、いつ買いました?」
「半年前です」
「どういう場面で、勝手に喋りますか」
男は言いにくそうにした。
「……夜中です。ひとりでいるとき。口が勝手に動いて、知らない名前を呼ぶんです」
「名前は」
「『たえこ』です」
◆
声の査定について、少し書いておく。
私たちは五つの項目を見る。
厚み。どれだけの言葉を、どれだけの相手に使ってきたか。 柔らかさ。どれだけ謝ってきたか。 硬さ。どれだけ命令してきたか。 揺れ。どれだけ嘘をついてきたか。 余白。まだ言っていないことが、どれだけ残っているか。
最後の「余白」がいちばん厄介だ。
余白の大きい声は、高く売れる。買った人が自由に使えるからだ。
だが余白の大きい声は、残留も強い。言い足りていない声は、買い手の中で勝手に喋りはじめる。
私が新人のころ、上司はこう言った。
「余白のでかい声は、値をつけるな。買わずに帰らせろ」
「なぜですか」
「まだ言うことがある人間は、まだ生きる気があるからだ」
私はその教えを、十一年守ってきた。
守ってきたのに、あの老人の声だけは、買った。
余白が、異常に大きかった。
それでも買ったのは——今なら白状できるが——その声が欲しいと言っている買い手が、すでに待っていたからだ。ノルマがあった。私はその月、二件足りなかった。
◆
私は帳簿を開いた。
◆
その声を売った人は、七十四歳の男性だった。半年前、店に来て、声を売っていった。理由は聞かない決まりだが、その人は勝手に話した。
「もう使わないので」
「使わない、というのは」
「話す相手がいないんです」
声を売る人の八割は、この理由を言う。私はそのたびに、規約通りに手続きを進める。話す相手がいない人の声は、たいてい安い。使われていない声は、痩せているからだ。
でもその人の声は、高かった。
痩せていなかった。むしろ、たっぷりしていた。誰かに向かって、長いあいだ、たくさん話してきた声だった。
私は珍しく、規約を破って質問した。
「奥様ですか」
その人は少し驚いた顔をして、それからうなずいた。
「四十八年」
「亡くなられて」
「三か月前に」
私は査定額を書いた紙を差し出した。その人は金額を見もせずにサインした。
「本当に、よろしいですか」と私は聞いた。
「妻としか話さない人生だったので」とその人は言った。「妻がいないなら、これはもう、荷物です」
◆
私は帳簿を閉じて、目の前の男に言った。
「前の持ち主は、ご健在です」
男は顔を上げた。
「会えますか」
「規約では、売り手と買い手の面会は禁止されています」
「じゃあ、この声、一生このままですか」
私はしばらく黙っていた。
十一年で、規約を破りかけたことは三度ある。破ったことは一度もない。
「住所は教えられません」と私は言った。「ただ、私が、伝言を預かることはできます。買い手からの伝言を、売り手に届ける。これは規約に書かれていません」
男は少し考えて、言った。
「じゃあ、伝えてください。『たえこさん、って毎晩呼んでます』って」
◆
老人の家は、駅から二十分歩いた住宅街にあった。
インターホンを押すと、しばらくして出てきた。半年前より痩せていた。
私が名乗ると、老人は目を細めた。
「ああ、あの店の」
声が出ていた。当たり前だが、声を売っても、人は無音になるわけではない。喉は残る。残るのは、器だけの声だ。薄い、水で割ったような声。
「伝言をお持ちしました」
私は男の言葉をそのまま伝えた。
老人は玄関に立ったまま、長いこと黙っていた。
それから、崩れるように三和土に座り込んだ。
◆
私は上がり込んで、茶を淹れた。この家の台所は、驚くほど整理されていた。整理されすぎていた。使われていない台所の整い方だった。
「妻はね」と老人は言った。薄い声で。「最後の一年、しゃべれなかったんです。病気で。私が一方的に話してた。返事はないんだけど、毎日、何時間も」
「そうでしたか」
「話し疲れて、あるとき私、こう言ったんですよ。『たえこ、たまには返してくれよ』って」
老人は湯呑みを両手で持った。
「そしたら妻が、初めて、口を動かしたんです。声は出てなかった。でも、口の形でわかった」
「なんと」
「『ずっと聞いてるよ』」
◆
老人は、声を売ったことを後悔していないと言った。
「使う相手がいないんだから、誰かに使ってもらったほうがいい」
「ただ、その声が、まだ『たえこ』と呼んでいます」
老人は湯呑みを置いた。
「そりゃそうだ。四十八年ぶんの八割は、その名前ですから」
「たえこさんは、どんな方でしたか」と私は聞いた。
規約違反だ。査定に関係のないことを聞いてはいけない。
老人は湯呑みを両手で包んだまま、少し考えた。
「声の小さい人でした」
「そうですか」
「私が大きいので、釣り合いが取れていました。私が全部しゃべって、妻がうなずく。四十八年、それでした」
「不満はなかったんですか」
「ありました」と老人はあっさり言った。「三十年目くらいに、一度だけ喧嘩をしました。私が『お前は何も言わない』と怒鳴ったんです」
「奥様は、なんと」
「『あなたが黙ったことがないから』と言われました」
私は思わず笑ってしまった。老人も笑った。
「そのとおりでした。私は妻に、しゃべる隙をやってなかった。その日から、意識して黙るようにしました」
「うまくいきましたか」
「いきません。妻は黙る癖がついてしまっていました。二人で黙っている時間が増えて、それはそれで、悪くありませんでした」
老人は湯呑みを置いた。
「妻が病気で本当にしゃべれなくなったとき、私は思ったんです。ああ、練習してたんだな、と」
「練習?」
「三十年かけて、二人で黙る練習をしていたんだと。だから最後の一年、私は平気で妻の隣にいられた。黙っている妻の隣にいるのは、慣れていましたから」
◆
私はそこで、初めて自分の仕事の意味を疑った。
声はその人の総量だ。総量を売るということは、その人の四十八年を、見知らぬ三十歳の男の喉に移すということだ。移された男は、夜中に見知らぬ女の名前を呼ぶ。呼びながら、なぜ呼んでいるかを知らない。
これは、取引と呼んでいいものだろうか。
◆
私は店に戻り、その日、初めて規約の改定案を書いた。
第七条の下に、一行を足した。
『売却時、売り手は買い手に宛てて、一通の手紙を残すことができる。手紙は、声に添えて引き渡される。』
店長は渋った。「余計な工数だ」と言った。
私は言った。
「声には、行き先を知る権利があります」
店長は変な顔をして、それから通した。理由はわからない。もしかしたら、店長も自分の声のどこかを、誰かに売っていたのかもしれない。
◆
老人には、手紙を書いてもらった。制度の第一号として。
便箋一枚、鉛筆で、こう書いてあった。
『この声を買ってくださった方へ。
夜中に女の名前を呼ぶそうで、驚かせて申し訳ありません。 たえこは私の妻で、五十年近く、私はこの声のほとんどをその人に使いました。 もう返事はありませんが、呼ぶこと自体が、私の癖になっていました。 癖まで一緒に売ってしまったようです。
もしご迷惑でなければ、呼ばせておいてやってください。 あなたの人生には関係のない名前ですが、私にとっては全部でした。
その声で、あなたの大事な人の名前も、たくさん呼んでください。 そのうち、たえこは薄くなると思います。 薄くなるのが、私はさびしいですが、それでいいと思っています。
声は、使ってもらってこそです。』
◆
制度を作ってから、私は自分の帳簿を見直した。
十一年で、私が扱った声は八千件ある。八千人が、自分の総量を手放した。
そのうち、手紙を残せた人は一人もいない。制度がなかったからだ。
私は八千件の売り手のうち、連絡先が残っている人に、一通ずつ手紙を出した。
『あなたが売られた声について。もしよろしければ、その声を今使っている方へ、お手紙を書きませんか。当店がお預かりし、お届けします。費用はかかりません』
千二百通出して、返信は四十七通だった。
少ない、と店長は言った。
私は多いと思った。四十七人が、自分が捨てたものの行き先を気にしていた。
返ってきた手紙の中に、こういうものがあった。
『この声を買った方へ。
私は三十四歳の女です。声を売ったのは、夫に殴られていた時期です。 声が高くて子どもっぽいと、夫はいつも私を馬鹿にしました。 だから売りました。売ったお金で、逃げました。
今は別の街で、別の声で、静かに暮らしています。
あの声はよく笑う声でした。 殴られる前の私が、たくさん笑っていたころの声です。 あなたのところで、また笑っていたら嬉しいです。
どうか、大事にしてやってください。 私が守ってやれなかった声なので。』
この手紙は、届けられなかった。買い手が受け取りを拒否したからだ。理由は「重い」だった。
私はその手紙を、店の金庫に入れている。
いつか、その声が転売されて、次の買い手に渡る日が来るかもしれない。
そのときに、渡す。
◆
男に手紙を渡した日、彼は店の椅子に座って、二回読んだ。
二回目のあと、彼は言った。
「僕、婚約者がいるんです」
「そうですか」
「名前、ゆかりっていうんですけど」
「はい」
「今日から、たくさん呼びます」
彼は立ち上がって、深く礼をして、出ていった。
◆
それから四年が経った。
老人は二年前に亡くなった。訃報は、あの男から店に届いた。彼は老人と、あれから何度か会っていたらしい。規約違反だが、私は報告しなかった。
男は今も店に来る。年に一度くらい。この前来たときは、子どもを連れていた。三歳くらいの女の子だった。
「名前は」と私は聞いた。
男は少し照れて、言った。
「たえ、といいます」
私は帳簿の手を止めた。
「奥様は、なんと」
「『いい名前じゃん』って」
私は笑った。この仕事で笑ったのは、ずいぶん久しぶりだった。
◆
声は返品できない。第七条は今も太字のままだ。
でも、行き先はある。
私は毎日、誰かの四十八年を預かって、誰かの喉に渡している。渡すたびに、手紙を一通、必ず添える。
届く先で、その声が何を呼ぶのかは、私にはわからない。
わからないままでいいと、今は思っている。
◆
最後に、私自身のことを書いておく。
私は十一年、この店で働いているが、自分の声を売ったことはない。
売れないからだ。
査定士は自分の声を査定できない。自分の声は、自分の耳には正しく聞こえない。骨を通って聞こえるので、他人が聞いている声とは別物になる。
つまり私は、自分がどれだけ人に何を言ってきたかを、一生知ることができない。
これは、この職業のささやかな呪いだと思っている。
ときどき、客のいない時間に、私は録音を再生する。十年前、研修で自分の声を録ったテープだ。
聞くたびに、知らない人の声がする。
その人は、今の私よりずいぶん早口で、語尾が硬い。人にものを言い慣れていない人間の話し方だ。
十年で、私は少し柔らかくなったらしい。
柔らかくなったぶんだけ、誰かに謝ってきたということだ。
それが何に対する謝罪だったのか、自分ではもう思い出せない。
思い出せなくても、声には残っている。
声とは、そういうものだ。
(了)
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