校閲者の墓
現実には誤植がある。それを直す仕事を、十六年やってきた

概要
郵便受けに届く赤い封筒には、世界を訂正する赤字が書かれている。桜の色、信号のタイミング、網戸の破れ。誰にも気づかれない訂正を十六年続けた男に、ある日「削除」という初めての指示が届く。5,000字の書き下ろしオリジナル短編小説です。
本文
現実には誤植がある。
私の仕事は、それを直すことだ。出版社の校閲部ではない。世界そのものの校閲部だ。
最初の仕事は、二十三歳の春に来た。郵便受けに、赤い封筒が入っていた。中には紙が一枚。
『市立第三中学校 正門横 桜 → 桜(白)』
意味がわからないまま、私はその中学校に行った。正門の横に桜があった。ピンクだった。私は紙を見て、それから桜を見た。
見ているうちに、花が白くなった。
枝の先から順番に、色が抜けていった。三分ほどかかった。終わったとき、私の手の中の紙は消えていた。
周りには生徒が何人もいたが、誰も気づかなかった。誰も、桜がさっきまでピンクだったことを覚えていなかった。
◆
仕事は月に二、三度来る。
内容はどれも些細だ。
『駅前ロータリー ベンチ 三脚 → 四脚』 『七月十四日 午後の雲 → 雲量やや増』 『佐々木書店 二階 階段の軋み → 消す』
私が行って、赤字を読むと、世界が直る。誰も気づかない。私だけが、直る前と直った後を両方覚えている。
最初の数年、私はこの仕事に意味があるのか疑っていた。ベンチが三脚だろうが四脚だろうが、誰が困るというのか。
十年目に、私は理由を知った。
◆
その年の秋、封筒の中身がいつもより長かった。
『十月八日 二十時四十分 国道沿い交差点 信号 青→赤(一・五秒早める)』
私は現場に行った。二十時三十分だった。何もない交差点だ。車がまばらに通る。
二十時四十分。
私は赤字を読んだ。信号が、いつもより一・五秒早く赤になった。
その一・五秒後、一台の軽トラックが交差点に入ってきた。信号が青のままだったら、そのまま通過していた速度だった。ドライバーはブレーキを踏んだ。
同じ瞬間、右手の歩道から、自転車の高校生が飛び出してきた。
トラックは停まっていた。高校生は、停まっているトラックの前を横切って、何も気づかずに走り去った。
私はガードレールにもたれて、しばらく動けなかった。
◆
それ以来、私は赤字の意味を考えるのをやめた。
ベンチの脚が四本になったから、誰かがそこに座って、誰かに出会ったのかもしれない。 雲が増えたから、誰かが日射病にならなかったのかもしれない。 階段が軋まなくなったから、誰かが盗み聞きされずに済んだのかもしれない。
全部、私には見えない。見えないところで、世界が少しだけ直っている。
私はただの校閲者だ。書き手ではない。物語を作る権限はない。誤字を直す権限しかない。
◆
一度だけ、自分から直そうとしたことがある。
二十八歳のとき、私は人を好きになった。
同じアパートの二階に住んでいた女性で、名前を岡本といった。会うのは階段ですれ違うときだけだった。私は挨拶をし、彼女も挨拶を返した。それを二年続けた。
二年目の冬、彼女が引っ越すことになった。結婚するのだと、大家から聞いた。
私は封筒を待った。
『アパート二〇三号室 岡本 転居 → 取消』
そういう赤字が来ることを、私は本気で期待していた。
来なかった。
当たり前だ。私は誤植を直す係であって、誤植を決める係ではない。
引っ越しの日、私は階段で彼女とすれ違った。彼女は段ボールを抱えていた。
「お世話になりました」
「いえ」
それだけだった。それが最後だった。
その夜、私は白い紙に、自分で赤字を書いてみた。
『岡本 転居 → 取消』
読んだ。
何も起きなかった。
当然だ。私が書いたものは、赤字ではない。ただの落書きだ。
私はそのとき、この仕事の本当の性質を理解した。
私には力があるが、意思はない。
誰かの決めた訂正を、実行するだけの手だ。
それがつらいと思ったことは、一度もない——と書けば嘘になる。
あの夜だけは、つらかった。
◆
三十九歳の冬、封筒が来た。
中の紙には、こう書かれていた。
『三月二日 十四時十分 桜見町四丁目 家屋火災 → 削除』
削除。
これまでで初めての指示だった。差し替えではない。まるごと消す。
私は住所を調べた。木造の古い平屋だった。表札は「奥村」。
三月二日まで、まだ二か月ある。
◆
私は、その二か月のあいだに、二度その家の前を通った。
一度目は昼で、庭に洗濯物が干してあった。子ども用のシャツが二枚。
二度目は夕方で、玄関から母親が出てきて、道の向こうの子どもに手を振っていた。
私は近づかなかった。校閲者は文章の中に入ってはいけない。それだけは、誰にも教わっていないのに、確信があった。
◆
二か月のあいだ、私は毎晩考えた。
なぜ「削除」なのか。
これまでの赤字は、全部「差し替え」だった。桜の色を変える。信号のタイミングをずらす。網戸を直す。世界の一部を、別の形に置き換える。
削除は違う。起きるはずの出来事を、まるごと消す。
これは訂正ではない。改稿だ。
私は自分に問うた。誰かが、この世界を書き直しはじめているのではないか。
だとすれば、その誰かは、どういう基準で書き直しているのか。
私は十六年ぶんの赤字を、思い出せる限り紙に書き出した。
三百七十二件あった。
並べてみて、気づいたことがある。
全部、誰かが死ぬはずだった場面の周辺だった。
ベンチの脚。あの日、そこに座った誰かがいたはずだ。三脚のベンチは、体重の掛け方によっては倒れる。
雲量。真夏の午後、日陰が一つ増えるかどうかで、老人は倒れるか倒れないかが変わる。
階段の軋み。軋まない階段を降りた誰かが、誰にも気づかれずに家を出た。出たあと、その人は死ななかった。
私は十六年、人が死なない世界を作る作業をしていた。
誰に頼まれたのかは、最後までわからなかった。
わからないまま、私はそれを三百七十二回やった。
◆
三月二日、私は十四時に現場に立った。
十四時十分。
紙を開いた。赤字を読んだ。
何も起きなかった。
いや、正確に言えば、何も起きなかったことが起きた。火事は起きなかった。奥村家は、平屋のまま、昼下がりの日を浴びていた。台所の窓が開いていて、ラジオの音が漏れていた。
紙は消えた。
私は道に立ったまま、自分の手を見た。震えていた。
◆
その夜、初めて、私は次の封筒を待たずに動いた。
私はこの十六年間、一度も差出人を探したことがなかった。探してはいけない気がしていた。
でも、その日は探した。
封筒には消印がない。切手もない。ただ郵便受けに入っている。私は郵便受けの前で、朝まで待った。
誰も来なかった。
朝になって、郵便受けを開けると、封筒が入っていた。私は一晩中そこにいた。
中の紙には、こう書かれていた。
『校閲者 → 交代』
◆
私は自分の名前が書かれていないことに、一瞬安堵した。
安堵してから、意味に気づいた。
交代。
私は紙を持ったまま、一日中動かなかった。読めば実行される。読まなければ実行されない。私はまだ読んでいない——いや、もう読んでいる。読んだ。
でも、何も起きなかった。
なぜだろう、と考えて、わかった。
交代先が、まだ決まっていないからだ。
◆
私は次の校閲者を探すことにした。
どうやって探すのかは、誰も教えてくれなかった。私は自分が選ばれたときのことを思い出した。二十三歳の春、私は無職で、部屋にひきこもって、三か月誰とも話していなかった。
あの春、私は死ぬつもりでいた。
これは、この十六年で誰にも言っていないことだ。言う相手がいなかったので、言う機会もなかった。
方法まで決めていた。日にちも決めていた。四月の第二週の水曜日だった。
その週の月曜に、赤い封筒が来た。
私は桜を白くしに行った。三分かかった。終わったとき、私は自分が三分間、死ぬことを考えていなかったことに気づいた。
水曜日は、来た。私は何もしなかった。
次の封筒が来るかもしれない、と思ったからだ。
それだけの理由で、私は十六年生きた。
今になって思う。あの最初の赤字は、桜の色を直すためのものではなかったのではないか。
私を直すためのものだったのではないか。
だとしたら、私も誰かにとっての誤植だったということになる。
悪い気はしない。
つまり、誰にも気づかれない人間が選ばれるのだ。
直したことを誰にも言えない仕事だから、言う相手のいない人間が選ばれる。
私はその条件を思い出して、少し笑った。ひどい人事だ。
◆
三か月かけて、私は一人の少女を見つけた。
十六歳。図書館に毎日いる。誰とも喋らない。本を読むのではなく、ただ棚の前に立っている。制服は着ているが、学校には行っていないらしい。
私は彼女の隣に立って、しばらく同じ棚を見た。
それから言った。
「その本、三ページ目に誤植がある」
彼女は私を見た。警戒した目だった。
「なんで知ってるんですか」
「僕が直しそこねたから」
彼女は本を取って、三ページ目を開いた。しばらく読んで、それから顔を上げた。
「『きのう』が『きのお』になってる」
「そう」
「これ、直せるんですか」
私は彼女の目を見た。
この質問をする人間は、めったにいない。ほとんどの人は「誤植がありますね」で終わる。直せるかどうかを聞く人間は、世界が直せるものだと思っている人間だ。
「直せる」と私は言った。「僕は十六年、それをやってきた」
◆
全部を話すのに、三日かかった。
彼女は信じなかった。当然だ。四日目に、私は最後に届いた封筒を見せた。
『図書館 三階 西側の窓 網戸の破れ → 修復』
私たちは三階に上がった。窓の網戸が、五センチほど裂けていた。
私は赤字を読んだ。
裂け目が、繊維の一本ずつ、閉じていった。
彼女は口を押さえた。
「なんで、こんな、どうでもいいことを」
「どうでもよくない」と私は言った。「たぶん、この網戸から入るはずだった蜂が、入らなくなった。それだけの話だ。誰も知らない。それでいい」
彼女は網戸に触った。
「誰も知らないなら、やる意味あるんですか」
私は十六年ぶんの答えを、そこで初めて言葉にした。
「意味は、僕らが知ってることだ」と私は言った。「世界には誤植がある。直せる人間がいる。直しても誰も気づかない。気づかれないことが、直った証拠だ。褒められる仕事じゃない。墓も建たない。ただ、直った世界のほうが、少しだけ人が死なない」
彼女は長いこと網戸を見ていた。
それから言った。
「わたし、やります」
◆
交代は、その夜に完了した。
最後の封筒が、私の郵便受けに届いた。
『校閲者 → 交代済』
読んだ瞬間、私の中から何かが抜けた。抜けたものの形はわからなかった。ただ、翌朝、駅前のベンチを見て、それが三脚だったか四脚だったか、思い出せなかった。
覚えていた分の記憶が、全部消えていた。
◆
私は今、普通に働いている。普通に人と話し、普通に週末を過ごす。あの十六年のことは、断片しか覚えていない。
ただ、年に一度だけ、三月二日に、桜見町四丁目を通る。
平屋がある。表札は「奥村」。庭に洗濯物が干してある。子ども用のシャツは、もう干されていない。二人とも大きくなったのだろう。
なぜ自分がその家を見に来るのか、私にはもうわからない。
わからないまま、毎年、少しだけ立ち止まる。
◆
去年、桜見町を歩いていて、若い女性とすれ違った。
二十代半ばくらいだった。彼女は私を見て、少し驚いた顔をした。それから、会釈をした。
私は会釈を返して、通り過ぎた。
十歩ほど歩いてから、振り返った。彼女も振り返っていた。
「あの」と彼女が言った。「わたし、あなたを知っている気がします」
「そうですか」
「でも、どこで会ったか、思い出せません」
私も同じだった。彼女の顔に見覚えがある気がした。ないのかもしれなかった。私の記憶は十六年ぶん抜けている。抜けた部分に、この人がいたのかどうか、確かめる方法はない。
彼女は少し笑って、言った。
「変ですね」
「変ですね」
それだけで別れた。
◆
家に帰って、私は郵便受けを見た。
空だった。十年以上、ずっと空だ。
それでも私は、毎日見る。
見るという習慣だけが、私の中に残った。習慣は記憶ではないので、消せなかったのだと思う。
もし、あの少女が今も続けているなら、彼女はもう三十を過ぎているはずだ。
どこかで、誰にも知られずに、世界の誤植を直しているはずだ。
直された世界の中で、私は普通に暮らしている。
私が今日、事故に遭わなかったのは、彼女のおかげかもしれない。
礼を言う方法はない。
言う相手を、私はもう覚えていない。
それでいい、と思う。
校閲者の仕事は、そういうふうにできている。
(了)
出品者: Regnboga.net 公式